「権威による教育の崩壊」のあとは「授業の復権」でした

しかし教育評論家とはどんなしごとなのでしょうか。
後半は個人的に好きな内容ではなかったので気分が悪くて仕方なかったため
読むのに少し時間がかかってしまいました。

内容は仮説実験授業、「水道方式」算数、鍛える国語、TOSS、100マス計算、「よのなか」科と、それぞれを提唱する先生方の紹介及び批評でした。

とくに「鍛える国語」はためになりました
文学作品についても「読解」と「鑑賞」を明確に区分し、「鑑賞」には正解はないが、「読解」にはただ一つの正解がある、その正解に向けて子どもを指導するのが授業であり、それを「教師の主観の押しつけ」と考えるのは間違いだと指摘する

学校では多くの授業が道徳教育に隠れてしまい、授業の、学習の、学力の向上という本質を忘れてはいないかというのが著者の主張。

「教育の崩壊」という嘘の内容でも紹介していた学力の二分化と学力平均の低下など、言っていることは同様であると感じました。

ゆとり教育のシステム、興味関心態度による新学力観はさらに拍車をかけるというのが著者の主張。ここにはうなずきました。

が、どうも納得がいかないのは、筆者の主張は物事のマイナス面ばかりを捉え執拗に悪だ悪だと主張しているように見えたことです。

問題解決型授業は落ちこぼれが参加できないから悪→仮説実験授業は誰でも参加できる→子どもを引きつける要素もあるから善い。

のような論述はあまり好きではありません。

僕は物事数値としてを捉えるとき、物事の側面には負の面と正の面とゼロが何事にもあり、
ゼロ近辺を"標準域"とし、正をプラス域、負をマイナス域、と考えています。
見える学力であればいわゆる偏差値50周辺が0であると考えて下さい。
平均以下を負と置くのは失礼という意見もあるかもしれませんがあくまで数値の上の話です。

一元的に学校で得るものは基礎学力、応用学力、基礎学力に根ざしたリテラシー(主に倫理による判断基準)と仮定します。

リテラシーがまったく、もしくはほとんど伴わない状態であればマイナス域
(社会的に知らずに犯罪を犯してしまう可能性があるという意味で)
基礎学力とリテラシーが一定に身に付いた状態で標準域
それ以上に応用学力として知識があればプラス域

著者は、学力1つとっても見える学力を数値にしたときの標準域の学生達についておおよそあまり触れていません。

「児童・生徒の八割は普通である」とどなたか主張していましたがそこに焦点を当てないと、

残りの2割の特殊な生徒達を分析しても学校は2割しか変わらない。

100マス計算や水道方式がマイナス域の子達を標準域に押し上げるのは分かりました。

しかし標準域の子達に「よのなか」科が通用する、という主張を
マイナス域の子達に「よのなか」科は通用しないと主張する意図は何なのでしょう。「教育方法に万能はない」と言いたかったのでしょうか。

しかしこの書き方では読者は批判的、否定的にしか受け取れない気がします。あやうく読んでいて納得しかけてしまいました。

悪いものの良い部分は受け入れ、良いものの悪い部分は改善する、そんな視点で書いてほしかったなと感じました。もちろん本書に対して僕も取捨選択しながら読ませていただきました。ためになる部分の方がもちろん多かったです。

あと学校内での政治思想の話もめんどくさいなと思いながら読んでいました。

学校に政治思想は入れるべきではないという話にはおおいに同意します。

が、同時に教育を変えることができるのは政治だろうと思っていた自分の意見が崩されました。

キャリア教育でもない、教育行政でもないとすると何が学校を変えるのでしょうか。

しばらく悩む日々が続きそうです