教育にかかわる人たちとの議論は本当に面白い。

先日も教職を目指す他学部の後輩に

「何で学習しなきゃいけないの?」

と聞いてみた。
後輩はあっけなく

「あぁ、なんででしょうねぇ?」

と答えた。

これは僕にとっても彼にとっても考える好機となりました。

まずここでの学習は学校教育をベースに想定していることを付記しておきます。

僕の結論は単純な3段階の段階分けによるものでした。

「1.知識がないと損をする領域がある。
 
 2.知識があれば得をする領域がある。

 3.知識があれば楽しめる領域がある。」


1.は小学校レベルの知識を想定してもらえばいいでしょう。単純な知識や方法です。

2.は知識の使い方、方略と呼ばれるものです。知識をどう使うか、その知識を使いどう高次のものを創造するか。創造性と読み替えてもいいのですが、それで覆える範囲はあまりにも狭い気もします。

3.は2.とかぶる部分があると思います。その学問の哲学だったり美学だったり、『新教養主義宣言』で言うところの教養です。

数学で例えれば、
和差積商ができなければ実生活で圧倒的に不利です。

三角形の体積を求めることが必要なときに、四角形を半分にする以外に、三角関数を使う方法や、微分積分を使う方法を知っていると得をする場面があるでしょう。

『博士の愛した数式』で博士は、素数を実生活ではあまり役に立たないものだが、その性質は愛してやまないものだという旨の発言をしています。

1、2は実用性が指標なのに対して、3はなくても良いものかもしれません。

しかし、結局学びを進めていく上で3.に行き着くというのも結論の一つです。



『生物』という学問は、他の生物を知り、人間を構成する生物を知ることで人間を哲学します。

『物理』という学問は、宇宙のなぞを解明することで、人間を哲学します。

『工学』という学問は、『情報』によるプログラミングを組み合わせた人工知能やヒューマノイドから人間を哲学します。

学問というものはあらかた人間を哲学する側面を有します。

そしてその哲学=人生をかけて楽しむべきものであると言っても間違いではないと思うのです。

生物で言えば、生物はつながりの中に生物を構成するものを見出し、存在意義を確立できるという話を聞いたことがあります。参照

アナロジー的に、人間も、知識の(物理的にも方略的にも)ネットワーク化による構造化によって自分や人間の構成するものを見出し、存在意義を確立できるのではと思うのです。

とすると、3.は十分に領域として確固たるものであると考えられると思うのです。

知識を教師側がしっかりメタ認知しておく重要性もここが核である気がします。


ちなみに子供の「どうして勉強しなきゃいけないの?」→ 勉強することの具体的で直接的で切実なメリットを説明より

現実には、先生の魅力次第なのよ。教える先生が、勉強のホントウの面白さがよく分かっている、人間的にもめっちゃ魅力ある子供以上に子供っぽい先生なら、その魅力は、いくらでも子供たちに伝えることができる。問題は、そういう勉強の楽しさが全身からあふれてくるような、勉強の面白さを子供たちに伝えるために労をいとまない先生が、めっっっっっっっっっったにいないということだね。だから、ここで書いたことは、みんな机上の空論で、そういう先生自体が、直接子供に語りかけないかぎり、その女の子の納得のいく答えにはならないと思う。というか、もっと深刻な問題は、そういう勉強のおもしろさに対する感受性のない子供、生まれつき菅原道真に忘れられちゃってるような子供がいて、そういう子は、たぶん、別の人生を目指すべきで、無理に勉強すると、かえって不幸になるから、そういう子にまで「勉強しなければならない」とかいうのは、ほとんど犯罪的だと思う。勉強なんてできなくったって、すばらしい人生を送る方法はいくらでもあるんだから。勉強することの最大のメリットは、勉強しなくても楽しく生きていけるということを知ることができる、ということかもしれない。


勉強したら負けだと思っているより

たしかによい教師に巡り会うに超したことはない。よい教師は本来であれば「勉強」しなければ習得できないことを、そうと感じないで学ぶ事を可能とする。しかしそれは「いればよい」というレベルであって、「なくてはならない」というレベルではない。悪ければ悪いで、そこから多いに学べるのだ。人によっては、その方が効率的に学べるかも知れない。私自身も振り返ると「教師」よりも「反面教師」からより多くを学んだような気がする。

教師の立場はあやふやです。





話は変わりますが、先ほど、メタ決定という言葉を知りました。

「いつ何を決めるべきかを決めておく」

ということでいいのでしょうか。

自分に足りないものの一つなのでここに書き記しておきます。