因果と責任は表裏一体です。因果があって、基本的には因には責任が伴うのです。

『善悪教育』の弊害の一つに悪者探しというものがあります。

何か事件が起きたときに「あいつが悪いんだ」と声高に叫ぶ方々がおられます。

日本の政治でのスキャンダル報道なんかがまさにそれなんだと思います。
wikipediaより

責任(せきにん)(英:responsibility)は、義務、あるいは義務に違反した罰または不利益を負担することを意味する。

また一般には、責任は原因とは区別される概念である。BがAの原因ということだけからは、BがAの責任を担うべきことが結論されることはない。


『原因を作った人に責任がある。』

という考え方は本当にいいのでしょうか。

誰かが過失を犯したとき、人は原因を三つのものに求めます。

1.過失者とその行動

2.過失者の周りの環境

3.偶然など神がかり的な何か

です。過失論は別として、それぞれ過失が何に起因するかということを

1.は自分の気の持ちよう、判断、選択、行動などに起因するとする考え方です。

2.は周囲の人間の影響の強さやフォロー不足、判断材料の質に起因するという考え方。

3.はタイミングが悪かった、神様が今は時期じゃないと教えてくれた。など超自然的なものに起因するという考え方。第三者に起因すると言い換えても良いでしょう。




なぜこんな話になったかというと、

先日僕が家庭教師をしている子どもが、僕の指導をサボったのです。2度ほど。

家庭教師の派遣会社にこの件について報告すると、「しょうがない子どもだなぁ」と職員さんがおっしゃられました。

この気持ちもわからなくもないのですが、すべての責任を一概に子どもに持たせるというのは酷だと思ったのです。

いろいろ保護者の方とも話して、子どもが勉強嫌いなのは家庭環境や今までの勉強の環境にも起因しているのではないかということが、うっすらと見えてきました。

こう書くと保護者さんに責任があるんじゃないかと思われる方もおられると思いますが、

別に保護者さんもちゃんと指導しておられます。

ただ、就職などの進路について子どもと話しているかとか、学校で教わった知識に対してフォローをしているかとか、

そういうちょっと複雑に絡み合った部分に対して足りない点を見つけたのです。




考えるべきことは2つです。

1つ目は子どもにすべての責任を求めることが本当にいいのか。

社会に出ても個人がすべての責任を負うことは少ないはずです。

責任の所在は1.2.3.のどれにも当てはまるはずです。




2つ目は責任でなく因果を追及すべきであるということ。

原因を個人に求めるから、何も解決せず失敗の歴史は繰り返されます。

例えばいじめるほうが悪い、いじめられるほうが悪いと叫んでいては結局いじめは繰り返されます。

因果をちゃんと把握し、システムを改善すべきであることは、今の政治を見ても明らかです。

家庭教師先の子どもの場合も子どもが悪いのではなく、保護者と子どもの信頼関係や、僕と子どもの信頼関係に起因するわけです。




日本のことわざに
「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があります。

「自分に厳しく他人に優しく」なんてスローガンもあります。

自分の過失は自分の失敗として謙虚に受けとめ、

他人の失敗は環境やひょっとして自分にも原因があるのではないかと考える姿勢が大事であるという訓示だと思います。

大人から変わらなければ子どもは変わらないでしょうね。