「なぜ勉強するの?」と子どもに聞かれたらにいまさら答えてみるに補足。
同記事より
先日も教職を目指す他学部の後輩に「何で学習しなきゃいけないの?」と聞いてみた。

前回書いたのは「学習の目的」

そして今回は「勉強の目的」。

学習とは自発的に知見を得るものであり、勉強とは与えられるもの、義務教育や研修など講義から宿題までを指す。切り分ける必要がある。

精神的感情的な要素がつよいため切り分けは難しいが、勉強の目的は「楽しい」ではないというのが今日のお話。



さまざまなHPや掲示板やBLOGやmixiのコミュニティを見ると、

なぜ勉強する必要があるかについて

「勉強の楽しさをしる」を最終目的にしている教師たちが大勢いる。

しかし最終目的におくことは危険なのだ。

それにはいくつか理由がある。



1.「楽しさ」って何よ?

「楽しさを知る」「楽しさ」って何??喜びとどう違うのだろう?

YAHOO!辞書『大辞泉』より
たのし・い【楽しい】
[形]たの・し[シク]1 満ち足りていて、愉快な気持ちである


満足して愉快であれば、家で教育テレビを見ていたほうがよっぽどいい。

この抽象的な目的ほど危険なものはない。

「楽しい」を科学的に考えれば、実はまったく詳しくないのだが、

ドーパミンとかアドレナリンとか化学物質が分泌される状態を示す(はず)。

つまり教育活動において勉強(=強いられた学習)に対し、(場合によっては反射的に)化学反応を起こすように仕向けることではないか。
つまり、すべてが当てはまるわけではないが、「パブロフの犬」を作っているに他ならない。
人間的な部分を育てるとか言いつつ、育てているのは動物的、本能的な部分に他ならないのではないか?

もちろん情操教育・感受性教育とは切り分けた部分の話である。



2.「楽しさ」で得られるのはモチベーションである。

楽しさは「挑戦」や「継続」の理由になるものであり、最終的に本人が「何をしたいか」の添え木でしかない。

特に注意したいのが「学習」の楽しさをさえぎってまで「勉強」の楽しさを与えようとすることだ。

知りたいことや興味があることがたくさんある子どもたちに、その探求の時間を抑えてまで興味のない分野を教えることは、阻害であり洗脳なのだと言うことを自覚しなくてはいけない。

「勉強」は得てして「大人の都合」でしかない。学校に教育の効率化の側面があるように。

生涯学習を見据えるのであれば、まずは動機として「楽しさ」を持たせることは大事だ。

つまり、最初の目的、段階的な目的としては大変重要だ。

授業において言えば「楽しさ」は前提であり導入であってほしい。

(WANT TO DOとTO DOのメリハリをつけるための教育は必要だと考えます。)



3.答えは書いてある。

今のBLOGOSPHEREの言葉を借りるなら「おまいら教育六法嫁」である。

教育基本法第一章第一条には
教育は人格の完成を目指し・・・と教育(≒勉強)の目的であり理由が書いてあるのだ。

わざと抽象的に書いてあるのは、「完成された人格」の指標が必ずしも一意でない(つまり時代により変わるものである)ことが理由として考えられるし、

「だから具体的には・・・」という議論が有識者の中でなされた上で包括されて、こう書かれていることに気づかなければいけない。

「具体的にこれもこうじゃないの?」と論じるのは研究レベルで必要なのであって、形而上学的にはほぼ出尽くされたと言っていいと考えられる。

抽象的に書いてあるのは機能性や具体性に欠けるなどと言うのは議事録答申や通知や研究報告をたくさん読んでから感じるのであれば語ればよい。

自分が研究を学ぶことによって得た知見は、3である。新しい視点を付加する必要があれば、これらを述べるべきなのだ。


「楽しい」を知り、「楽しい」ことばかりをする大人を増やしたいのであろうか?と言うことを考えればすぐわかる。「楽しい」ことには公共の福祉に反することも多々ある。

学習の「楽しい」魅力を語るだけであればリスクはないのかもしれないが。

「楽しい」の一番の特徴はメタ化しにくいと言うことである。

「○○は楽しい、○○が楽しい」
という答えの多くは具体的事例「こんなときにこんな発見があれば楽しい」や体験「あの時ああいうのが楽しかった」であり、一般化・抽象化がきわめて困難である。遊園地の遊具のように傾向分析はできても。

なので「なぜ勉強するか?」の答えは出ないが、「楽しい」を「勉強」の「最終目標」にしてはいけない。

なので「勉強」の最終目的は人格の完成である。
と言うのは僕の意見なので聞かなくてもかまわない。

この記事を書くために多くのサイトを読んだが本当にためになった。多くのブロガーに感謝したい。