今、いちばん大切な本

通常、経済学はそういうものだと思われていない。お金の話だと思われている。でも、経済学はそれにとどまらない。「今」を引き起こした人間の各種選択行動とその根底にある原理を探すのが経済学となる。
読みたい。。。


愛国心をおそれてはいけないよ。

国は自分自身をも含む。だから国を愛するというのは、少しは自分自身を愛してあげることでもある。
ただ、保身と貢献のバランスは考えなきゃならない。
多分愛国心とは何かを知らずにそれに依存することがだめだといいたいんだと思う。
それを語るのであれば最低限話が通じる程度には知るべきだということだと思う。
メリットもデメリットも知った上で批判すべきだということだと思う。


性的少数者

→特別支援もそうですが、マイノリティに対する教育とか対応について、ほとほと僕は無知だと思う。
自分がそうなった時にされたら嫌なことをしないという最低限の部分でしか行えていない。何が貢献で何が過剰な親切かもわかっていないし。
セクシャルマイノリティは意外と身近な存在だし、だからってへぇーとしか思わない。
子孫を増やすことが生きる目的でなくなった今、そういうことを考えることでなにか生きることを考えることにつながらないだろうか。


ビクターマークの由来

→犬は可愛いなぁ。

家族に期待しすぎなさんな。
――『家族という神話』(ステファニー・クーンツ)書評


問題は、それがフィクションだということを忘れ、それしか世の中にないんだと思いこんでしまうこと。そういう盲信からいろんなゆがみが生じる。


家族って、生まれたときにはすでに形としても法律としても完備されていて、
結婚しなければいけない、親にならなければいけない、それをステレオタイプのように教えられた。
確かにこのシステムは多数メリットがあるからといっても必然じゃないのかもしれない。
離婚社会が拡大してきたのはこの部分を本能的に皆がわかってきたからじゃないだろうか。

インターネットの中年化

→これが10年前の記事なのは驚き。
若干予想にはずれもあるし、インターネットはいまだ肥大化している感がある。
それはユーザが大人になっていける世界が増えたというだけだろうか。
若い子達の世界では確かに淘汰のような状況は出てきているのは確かだ。
BLOGの存在はホームページと掲示板、どちらの概念に入るのだろう?


パティ・スミス(仕掛かり版)
スタジオボイス 原稿読破。
山形氏のあとでアレは悪かったなんて書きながら毒を吐き続ける様子はおもしろい。
お笑い芸人があの時吸いませんでしたって楽屋裏で誤っているようだ。
ガールズパワー、、、あれはすごいですよね。。。勝てません。


集合知を多数決で作るのは間違い。

→すごいなぁと思ったのは今流行の事例を解説するのでなくそれをメタ化して問題点をタイトルに押し込んでいること。
そして法律とそれの元になったはずの著作権意識の軸バランスがずれていること。
パラダイムシフトって言うのかな?だからそろそろ著作権法のバランスを整えようといわれて久しい。

※追記に追記あり

覚えておきたいちょっと計算を速くするための小技10

→これこれ、計算してると自然に閃くんですが、なかなk気付きにくいところにも手が届いていていいですね。
「正しい」には二つある、あるいは二つしかない

→弾氏がもっとわかりやすく書いていた。

殺人や傷害といった、厳密に適用するのが正しいとほぼ全ての人が同意するであろう法でさえ、いくつも例外事項があるのだ。
これは規模の問題じゃなかろうかと思う。誤差と同じで0.5%の例外があるとすれば、100人規模であればほぼ例外はない。200人いてやっと1人、1000人いて5人の例外が出てくる。

数が増えると例外が1000人になる。これが殺人犯が1000人だったら大変危険だ。だから法律を細かく整備する。まさに規模から発生する問題だし、これに対応したシステムができる。これは弾氏のBLOGから学んだ。

量刑から最高速度までもそうだし、ゾウの不経済、ネズミの不経済でも言ってたじゃない。
下記引用

人間の社会も同じ事が言える。社会の大型化が人口増大を招いたのか、人口増加が社会の大型化を招いたのかは典型的な「にわたま」問題だが、いづれにせよ63億人もいて曲がりなりにも「もっている」のは、社会の大型化と複雑化、そしてそれによって可能になった相互依存化があってのことだ。物流があるからこそ、これだけの人々が生きて行けるのだ。

そして、「正しい」という概念は(敬愛をこめて)ひろゆきが黒とかグレーとか言うようにバイナリではなく領域であると思う。

神様的に正しいは完全なバイナリなのだろう。でないと処理に困る。絶対的だから。

だけど人間的に正しいは皆が正しいと思う高次元の領域で落としどころを取る。正しいは相対的価値のひとつでしかない。

ある人にとって正しい(1)、ある人にとって正しくない(0)として平均を取るしかないことになると大変で面白いことになる。

オイラーは1+(-1)+1+(-1)+・・・の計算をS=1+(-1)+1+(-1)+・・・とおいて1+(-1)+1+(-1)+・・・=S-1から2S=1/2と値を求めた。

だが、コーシー列にならない和は意味がない。

妥協点の取れない正しいは(人にとって)意味がないのだ。

期限を見て取ってもそれは見た目はパルスでも振幅変調であろう。

それにガリレオのときのような政府と宗教と科学者のパワーバランスも「正しい」に余計な係数をつけるからややこしい。

水にありがとうと言うと綺麗な結晶ができることが正しい時代は来るべきではないと僕も思うんだけどなぁ。