黙って引っ込んでいられなくなった玄人http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50916417.html

→僕は恩師からプロ意識というものはアカウンタビリティを持つことからだといわれた。

アカウンタビリティは説明責任、聞かれたら納得できるだけの理由を応えられることである。
要はエビデンス、論拠をもつこと。
ほんでもって一般人のもこれは必要なはずなんだよね。特に専門家に口を出す時は。
僕が年を取ってきたから何か昔からか、最近はセミプロみたいな人がプロに口出しする場面をよく見るが、受け答えの一番の違いはこのアカウンタビリティで、それを見てやっぱりプロとセミプロは違うなと思うのだ。


一般的にはアカウンタビリティ(アカウント・アビリティ:説明能力)には段階があるだろう。段階が飛び飛びかもしれないが思いつくままにあげる。


・直感的感覚的なアフォーダンスのレベル
・「テレビで言ってた」など見聞のレベル
・論理的に筋が通ってはいる整合性のあるレベル
・数値や統計的なデータを背景に用いたレベル

数値を用いたからといっても完全に信用できるわけではないが、
99.9%が仮説の世の中で最も信頼性が高い語り方なのは確かだ。
もちろん組み合わせわざとかいわゆる研究に基づいた語りも含む。

要は主観から遠い、すなわち客観性のあるエビデンスが求められる。
なんらかの意思決定をした際、「慣例だから」とか「僕の経験的に」とかを理由に使うべきではない。しかし経験則は理由の一部としてなら適切だろう。

客観性は主観の集まりではない。主観を完全になくすことだ。

16歳の教科書などを読めばわかるが学校の国語では国語力としてこういう姿勢を教えろといわれて久しい。

文章を書けといわれて、花を美しいと感じたとか、プールを楽しいと感じたとか、それはそれで結構。
でも読書感想文は読書をして面白かったと感想を述べ賞賛するより、疑問を呈すもののほうが価値が高い。学校で教えるのはそういう姿勢だろう。

そうすれば、ある施設で手順を踏めば「ありがとう」で綺麗な結晶ができるから道徳的だという類の科学は価値を持たなくなるだろう。

「人生いろいろ、政治もいろいろ」なんて首相も生まれないだろう。
「ネットのヘビーユーザーに追加課金?」,総務省のネット中立懇が報告書を近日公開


→困ります



キャリア教育って・・・何?

「キャリア」はこれまで「成人の労働」をしたことがない子どもたちに「仕事をするとはどういうことか」を教えるのである。

このかき方は賛否両論だろうと思う。
教えるの?考えさせるの?成人の労働って何?労働観とか勤労感じゃないの?
表現云々と言うか、この成功した大人を見せて話を聞くってスタイルも古いというか。。。


リベラル・アーツ

→人文学、社会科学は教養教育に位置づけられるらしい。
そしてこれらは奴隷にならないための教育であるらしい。


シリコンバレーは変な日本人の吹き溜まり

→例2
質問「飽きっぽいのって悪いことなんじゃないんですか?」
回答「全然!飽きっぽいの万歳。飽きっぽいから次々に新しい技術を身につけていくことができるんじゃん。」

これはある程度で切る人、の見込みが早い人だからこそ言えることだと思う。
俯瞰性を持って物事に接し、ある程度自分の技術がついたと思ったら別のものに切り替える。
これは誰しもができるわけじゃない。自分にもそんな才能があるか時々試してみたくなる。

リーダーシップのために:ワインバーグ「スーパーエンジニアへの道」
おもしろさからつかみとる知恵の本:高野豊「rootから/へのメッセージ」(アスキー)


→リーダーシップの中にはマネジメントの技術も含まれる。

この両記事に通じることは「見る目」を養うという発想だろう。
人を見る目、技術を見る眼、そしてそれらと対比させて自分を見る目。

発見、習得、アナロジー、発想、知識の構造化。

すべてがつながりたがっているのにあなたは怠惰してないだろうか。
僕は怠惰してないだろうか。