事の発端はこの記事

非国民通信‐必要とされていないから‐ より



 しばしば日本の子供達の勉強意欲が問題視されるわけですが、では教える側の制度はどうなのか、そこにもっと目を向けなければなりません。学校にいる時間を基本的に勉強して過ごすのか、それとも学校にいる時間の大半を「勉強」的なイメージとは遠い教科のために費やすのか、日本の現状はどうなのでしょうか?

 体育や道徳、図工や「家庭」こうした教科が日本の学校では半数を占めています。そこに「勉強しなさい」と言われても「何を?」と感じるのが自然ではないでしょうか。明日に備えて予習? 道徳の予習? 今日の授業の復習? 体育の復習? 学校制度自体が勉強に熱心ではないのに、それを無視して子供達に勉強しなさいと言うのはあまりにも無責任です。



まずこの教科観の狭さ(図工や家庭は学ぶべきものを見つけられないの?とか、僕にいわせれば体育や道徳は日常に密接だからこそ勉強すべきものなのに)にも驚いたけど。勉強ってそんなに狭いものかな?
勉強って進めていくと最終的に他の勉強と組み合わせなきゃ絶対解けない領域がある。
そういう知識と知識がくっつくのが勉強や学習の一番の面白さじゃないんだろうか。と最近は結論付けるようになった。いわゆる構造化というやつだ。

そういう構造化の楽しさを僕らは本当は知っているはずだ。
推理小説やドラマの最後で文章とイメージとトリックと犯人がつながるあの感覚だ。
鉄棒で回る際腕を引けばいいよといわれてくるっとまわれる、体と知識がつながるあの感覚もそうだ。

子どもの頃はその「無意識下でのメタ認知」が楽しいのだ。大人になっても少なくとも僕はメタ認知を楽しんでいる。

それを補助・促進するのが国語社会理科算数「以外」の教科じゃないの?本来の体験や教養科目の役目はそういう認知の助けとなる部分だろうと僕は主張したい。

音楽が英語と社会をつなげることもある。図工が理科と算数をつなげることもある。頭のイイのか悪いのかわからない大人たちが難しい話や自分の知識教養をお互いにひけらかして笑いあうのは構造化が楽しいからだろう(もちろん他の要素も多大にあるが)。

さて、そういう目で見ると中央教育審議会の検討素案もおかしく見える

7. 教育内容に関する主な改善事項
(1)  各教科等における言語活動の充実
(2)  理数教育の充実
(3)  道徳教育の充実
(4)  小学校段階における英語活動の充実
(5)  教科等を横断して取り組むべき課題への対応




理数教育の充実とはどういうことだろうか?
理数教育を追及したって何も生まれないだろう、
だって純粋な学問は追及すればするほど実際の生活化からかけ離れていくんだもの。さがしてみると10年前のアメリカも同じ事を述べている。


「やる気がない」というのはそういう純粋な学問の追求の中で単に実社会とのつながりを見出せないことが増えてきたんじゃないの?

確かに純粋な学問にはロマンがあり、学者たちはそれが面白いという。

そんなロマンを感じる人は一部だ。万人にその価値を押し付けるべきじゃない。

大事なのは理数教育と社会をつなげる部分、すなわち技術教育(pdf)社会工学だ。

高校で数学と物理とをつなげるのは2時間数や微分積分だけど、それが目に見えて生きるのは車や電車といった技術じゃないの?

速さが2倍になると衝撃は4倍になる。免許取らなくても知っておいて言い事実だよね、スピード違反がなぜ悪いか、違法だからって言うよりよっぽど理解できるでしょ。

そいうい社会工学的意義を知って初めて学びたいと思える、役に立つと思える、継続につながる。

数学は生活に関係する最低限の解法さえ知っていれば計算はコンピュータがしてくれる。

理数教育充実と道徳教育充実が叫ばれてるけど、

理科など科学教育で、先生たちが「水からの伝言」を教えるって問題になったじゃない。

技術教育じゃなくてもいい、今子どもたちに必要なのは、知識と知識をつなげるための教育だ。これを審議するような賢い人たちは構造化を何も意識せず与えられずにできたから理解できないのかもしれない。



もう一つ突っ込んでおきたいところは各国の教育目的の違いだ。
一通り調べてみた。

日本は書いてあるとおり完全に人格形成に奉仕する教育だ。

だが、ロンドンのあるイギリスはどうだろう?

イギリスでは、1999年の教育改革時に、「持続可能な社会のための教育」の推進を教育の目的の柱に据え、ナショナルカリキュラムの目的に位置づけている。

教育の目的を国家でなく持続可能な社会のためと考えている。

アメリカは日本と同様「アメリカ国民の一人一人が、それぞれ一個の人間として成長することができるように学校教育は存在する。」(pdf)のだそうだ。アメリカの教育基本法が検索で引っかからなかったのは申し訳ない。理念としては「民主主義を守る子供を育てる。」という文化背景の上にできたそうだ。

日本と違うのは「人格は完成しない」ということ。勉強を教えるのでなく勉強の仕方を教えて社会に出ても成長できるようにと言うことだろう。

また、記事ではずされていたフィンランドだが

「学習者の人としての成長を支援し,社会の一員として倫理的な責任能力の醸成を支援し,また彼らの生涯にわたる十分な知識と技能を与えるものとする。」

と、一番日本に近い。

何が言いたいかと言うと、目的の違うものを比べてあちらのほうがよい結果というのはナンセンスではないかと言うこと。

PISA調査が話題になっているが、学力と言う言葉一つ取っても記憶力もあればIQのような認識発見力、創造力のような応用力と幅広いのに、それであたかも学力すべてを計ったかのように述べ、学力不足だから勉強を、という議論は見飽きたし聞き飽きた。

目的が違うのに、中身を比べてシステムがあーだこーだというのは、(非常に表現が悪くて申し訳ないが)シャープとトヨタがお互いの生産ラインをみて、あちらのほうが効率的だと工場内で言い合っているのと同じだ。

細かい部分で応用できても丸ごと取り入れるべきではない。

今回の記事であればむしろフィンランドと比較すべきだし、多くの学者は学力が下がると「国が国が・・・」と言い出します。

国のための教育ではありません。国民のための教育です。(賛否はともあれ)
民が主で国が従ですが、しかし、あたかも国があることが前提で、国がだめになると学者たちは論じる。

だから、僕の今最もファッショナブルな話題は『国って何?』というものだ。

共同体と言うにはあまりにも大きく理不尽になりすぎた国。

ただ共同生活のための集団と言うだけでは理由が足りないように感じるし、皆にも考えてほしい部分の一つだ。