近況を。

今年は進学をやめた。少なくとも夏の試験は見送った。

理由はいろんな要素があるが、いったん現場に出ることの必要性を前々から感じていた。と言うとカッコいいだろうか。



今日は同期のイケザワ君と図書館に行った。

研究用の資料となる図書が思いのほか少なく、一冊しか手に入らなかった。

この分野(MOT)を研究している先生方なども大学にはおられないのだろうか。

ましてや中学校の授業に入れてみようなんて考えているのはほぼいないだろう、と考え、自分の研究の難易度に立ちすくんでいる。

まだ、MOT教育の研究自体は始まったばかりだ。

今中学校のカリキュラムに教材・題材として扱うべきものではないのかもしれないが、でもいずれ必要な要素になるだろうと思っている。

というか社会のニーズ、技術教育としてのニーズを最低限満たすだろうという予想は立つのだが、検証が難しい(というか僕はその方法をちゃんと知らない)。




夕方は他研の後輩が珍しく研究室に来た。最近後輩に話しかけては相談に乗っている。いや、無理やり悩み相談させているという表現がぴったりだ。

その後輩の相談は、ゼミを必要と感じないということだった。

少なくともゼミとバイトがあればバイトを優先してしまうという。

昔お世話になっていた田中研究室のときなんかはそういう学生が大半だった。僕も例外ではない。

今の研究室は運営がとてもうまく行っており、快適だし、素直に言えばゼミも当たり外れはあるけどある程度勉強すべきことが見える、という状態。

考えてみればいい。ゼミの時間はだいたい3時間。その時間集中すれば本を一冊読み終えることも可能だ。

その時間を割いて集まることの意義って何?と。ほんで知識を得るよりメリットがあるのか、と。

ここで二つのネックが生じる。

一つは、ゼミそのものが学生にとって与えられた文化であるということ。

先生の方針でとか、先輩たちの慣例で、とか、集まる理由が自分以外にあるのであればそれは負担であると感じる確率のほうが高い。

今の研究室は先輩たちが文化を作ってきた。4年生くらいまでは先生、OB・OGその文化を一緒に作り上げてきた学生なので、その意味がわかっている。

もう一つは、誰のためのゼミかはっきりしないこと、だ。

先生のためのゼミであるなら、それは負担でしかない。

必要ないと思うのであれば、ゼミもしなくていいと思う。

先生に言って、個別の卒論指導などだけでも、事足りると伝えればいいだろう。

やるというのであれば、ちゃんと研究室のリーダーがそのメリットを示し、意思を共有し、皆で作り上げる必要がある。

うちの研究室の後輩にも話を聞いたが、やはりゼミは与えられる文化でしかないようだった。

ならばより意義のあるものに作りかえればいいのだと思う。

満足しないものに従う必要はない、多くの議論や計画やアイデアを積み重ねて自分たちの文化にしちゃえばいいじゃん。

そんな話を簡単に伝えた。

話は飛ぶが、最近「教養や力は上に立つ人は最低限持っているべきものだ」と考えるようになった。

特に教育学部で教師を目指すのなら。分析する力、考える力、システムを変える力。流されていても、環境のせいにしていても、力はつかないし、人を変える力はそこにはきっと生まれない。

「教師と言う仕事」は生きる術でなく、生きる目的であるのが理想。

だから、偉そうかもしれないが、でもしか先生にはなってほしくないのだ。

なので、ある時から必要もないのに後輩たちにかかわりあうようになった。



夜、その当の他研に顔を出すと、世良先生と院生が企画を思いついた、と持ちかけてきた。

ゼミを面白くするよう、彼らも考えている。

6年間この棟に出入りしているが、この棟は変わってきている。

皆が課題を解決し、学生同士が磨きあい、成長している。

自分だけが成長せず置いていかれる感覚だけが残るのだが。