[追記]もしも、ブロガーが死んでしまったらブログはどうあるべきなのか?
dankogai氏が亡くなられた場合、あの方のブログというのは、ある意味『財産』になるのではないだろうか。


情報発信ツールとして使われるHPやBLOGはたしかに財産である。
しかし、コミュニケーションツールとしての側面から見たHPやBLOGは墓標になる。

墓石・お墓あれこれ
墓標とは故人の一生を象徴化してその人が持った意味を込めるものです。


参考:メディアと怪談とインターネット
私がHPやブログをはじめたのは結構前からなのだが、

ブロゴスフィアの世界に入ったのも「死」がきっかけである。

まったく赤の他人なのだが、読み返すのも痛い。病気とたたかう社長のblogである。
重要なお知らせ
多くの読者からメールを頂く中で、私の病状によって元気を出したり、自分の病状を重ね合わせたり、その影響力は決して小さいものではないことを実感しています。

ある状況になった時には、安易に更新を続けることよりベストな選択を熟慮する必要があると考えていました。


死に向かいながら継続する姿勢、リアルタイムにそれが伝わってくるというシステム、BLOGの影響力、若い自分にはそれらがまぶしすぎた。今でも更新されることのないFEEDをRSSリーダに登録してある。のちにアルファブロガーという単語を知り、BLOGOSPHEREの様々な事象を知ることとなる。

なぜこのような記事を書こうと思ったかというと、今日そのWEB墓標にお参りしてきたからである。

去年末、友人が白血病で亡くなった。故人と共通の友人から電話が入り、数年前から白血病であったことを故人が亡くなってから知ることとなった。

彼とは趣味友だちで、ダンスの練習や遊びに行くとたまたま会って、その場で笑い話をするような仲だった。mixiに彼のアカウントがあり、そんなつかず離れずの距離だった事もあり、マイミク登録していなかったのだが気づけばそんな顛末になっていた。

若干後悔が残るのは、彼が病気だと気づかなかったこと。墓参りをして彼の最後の日記エントリーが「退院しました」と言うものであったと言うこと、白血病コミュニティにたくさん入っていたことに今日気がついた。だからといって知っていてもお見舞いに行くくらいしかできなかっただろうが。

もしリアルの世界で誰かが亡くなっても、WEBのバーチャル世界、サイバー空間には別の人格としてまだ残ってるように扱われる。情報倫理の中でも最も扱いづらい問題の一つだろう。

WEB上では正直いつもの自分じゃない自分がたくさん出てくる。WEB人格とも言えるいくつかの人格達は、WEB上で自分の手を離れいろんなWEB人格達と交流する。もちろんすべて本物の自分の人格でもある。

その人格の持ち主がいなくなると、HPや個人ページがそのままWEB人格のお墓、WEB墓標となる。そろそろサイバー宗教がたくさんできてくるだろうとかって話もある。

ちょうどこんな感じ。
多重人格って普通だよね?
実際、私のblogは「一人の作品」というより「小飼弾」という「ユニット」の作品と見なした方が納得する。ある時は人格A、またある時は人格Bという感じで。ちなみに私の人格は全て「名無し」で、その時に体の制御を担っているものが、「小飼弾」に対して応答している。


僕が今日手を合わせた墓標にいた彼は、いつも僕が見ていた彼だろうか。


ふとそのとき気づいたのが、そのWEB人格は、言葉によって形作られていると言うこと。ボイスブログやビデオブログなども広がりはじめているが大半のBLOGのはテキストによるものばかりだろう。写真を見なくとも、そこに見たこともない人達の輪郭が浮かぶ。

言葉が人格や神格を形作る。

神様がいるかいないかは分からないけど、神様の言葉は存在する。だから神様を皆信じる。オカルトもそうだ。霊というものが存在する科しないかは分からないが、小説や写真には霊が発したと言われる言葉やサインが残っている。だから存在する。都市伝説も、モンスターも、WEB人格も。

もしかしたら言葉一つ一つに人格を見るのかもしれないし、言葉は輪郭線で、何本か集まらないと輪郭は描けないものなのかもしれない。どちらにしろ言葉は我々のプロパティだ。

SNSのようなコミュニケーションツールとしてのWEBページが増えてきた昨今、このような墓標はこれから更に顕在化するだろう。

なんでも秋葉原ではメイドの格好をした巫女さんがパソコン供養をしてくれると言う話だ。