昨日の記事にどんなジレンマの管理人さんからトラバが入ったので答えます。

丁寧に対応した記事を書いていただきありがたい限りです。

で、問題のここ。

「それ、たぶん違う。」は違うんです(紛らわしくて申し訳ない)
なお、「人間環境次第で悪にも善にもなる」というのは、ちょっと保留させてください。教育という視点や割れ窓理論は確かに興味深いですけれども、「世間的にいう悪い子」と「ネガコメを覚悟なしに行う方」を同列に語るのはうまく理解できません。私の誤読かもしれませんが、まるで「ネガコメを覚悟なく行う方」を子供だとみなしているように感じました。

また、環境次第で変化するのは事実ですけれども、はてなブックマークの仕様によって、コメントする内容が変化するのであれば、私から見ると「道具に振り回されている」ように思えます。お書きになられた記事の大半に同意できるのですけれども、私は上記二点に疑問を感じました。

表現力不足は申し訳ないです。前提から洗い直せば分かるかもしれません。

1.社会的善悪と個人の善悪の判断は違う
 社会的な善悪とはいわゆる道徳と呼ばれるモノでしょうか(この言葉は嫌いですが)、これは時には行動の指針となり時には制約のための規範となります。
 ここでは大げさに書きますが、例えば「人殺し」はいけない、というのは社会的な悪だと思います。道徳から考えたら「自分がして欲しくないことは他人にするな」。直感的に分かることで殺されて嬉しい人は少ない。人が簡単に死ぬ社会は繁栄が難しい。win-winな関係を築けない。など理由には困りません。

 しかしこの社会的規範が個人にとっても絶対とは成り得ないのです。「自分がして欲しくないことは他人にするな」という視点に立てば、自分の命をいとわない人は他人を殺しても(胸が痛むかどうかは別に)悪だと思わない事があります。その典型が自爆テロですよね。彼らは自分の行為が自分の神様の元に正しいと考えて行います。
 個人の善悪はその個人が育ってきた環境と与えられてきた視点に左右されます。世間的には悪いことでも自分たちは正しいと信じて行う"確信犯"という言葉もここから生まれました。だから「世間的に悪」ではあっても僕個人としては悪ではないと言う意味で「世間的にいう悪い子」です。

 ブクマの話に戻すとネガコメは世間でなく「個人的な悪」の要素が強いのではないでしょうか。もちろん中には毒気が強すぎて被ブクマーだけでなくブクマを読んでる人までも不快にする事もあるでしょう。それは場合によっては社会的な悪かもしれません。誤解を恐れずにいうと悪臭と一緒です。判断はグレーゾーンです。

まず社会的な悪か個人的な悪かを切り分けて語ることが大事です。「受け取る側の問題」派の方達は皆そういいたいのではないでしょうか。(ちなみに僕個人は個人的な善悪が学習を積むことで社会的な善悪に収束しないと考えています。だから押しつけがましい道徳が嫌いなのです。)

2.「子ども」という言葉
 「子ども」という言葉は文脈的に、行動にある程度責任を持つ立場かどうかという言葉で捉えるべきなのでしょうか。確かに行動に対する責任論は大事です。ハテナの場合ブクマにはプライベートモードも用意してありブクマコメントを隠せるようになっているようです。

 ただ、大人も子どもも(世間的な)間違いを起こす存在であることは変わりません。むしろ凝り固まった思考や忙しさによって世間に対する適応力(適応する時間)が少ない分大人の方がタチが悪いのかもしれません。子どもであれ大人であれ自分の行動に責任は生じますし、「知らなかった」で済むのも範囲は違えど限界はあります。子どもといわれると反射的に不快感を示す方もおられますが、大人も子どもも地続きで本質的には同じものだと思っています。なのでごっちゃにした表現をしてしまいました。

 教育の視点とか必要性というのは、多くの視点を学ぶことで、自分の行動に対して、社会的な善悪と自分の善悪のトレードオフ(妥協点を取る)をはかる必要があるからです。体系だった学問を教えるのはその媒体でしかありません。そういう意味で人を不快にさせてしまうブクマはトレードオフを取れていないとも考えられ、教育が必要な存在には変わりないと思うのです。少なくとも記事を書いた本人を傷つけずに語る方法については、応用できるコミュニケーション技術の本が沢山でていますから。おすすめは断然「二日で人生が変わる箱の法則」。
 ちなみに補足しておくなら大人の段階で必要な教育とは妹尾先生が語る"互学互習"であると思っています。能力を差別化するシステムの教授型や支援型の教育でないことを踏まえておいていただけると誤解がないと思います。

3.道具は人間を超える影響力がある。
 人間と道具の使い方という本質を捉えているのは素晴らしいのに、道具の力の大きさをまだ把握されていない気がします。
 例えば産業革命くらいから制御による自動化によって人間の仕事は道具に取って代わられた。
仕事を「創造」「作業」に分ければ分かるのですが、「作業」が取って代わられ、「創造」は人間が担当するといったつきあい方、「共存型」になりました。それまでの例えば石器時代の石器と人間のように「主従関係」ではなくなったのです。
 現代の技術では人間と道具との力関係は互角かそれ以上です、ただ「振り回されない」という言葉を使うと「道具と主従関係を築け」と聞こえてしまいますが、本当は振り回されないよう共存するのが望ましいといいたいのではないでしょうか?

 PCのブラックボックス化を例にとります。PCの電子機器、UI、などハードウェアの部分、プログラミングなどの複雑なソフトウェアの部分、その二つを仲介するOSなど、その中身すべてを学校だけで習うことは不可能ですし、ブラックボックスだからこそ使いやすいというメリットもあります。それに対し「道具に振り回されるな」というのは言われた側からすればすべてを理解して使え!という暴論になりかねません。インターネット免許制と対して変わりない気もします。

 はてブに対しても、はてブがオープンソースだったとしても改造してよりよくアーキテクチャを最適化できる人はほんの一部でしょう。

4.アフォーダンス
 教育工学に「アフォーダンス」という考え方があります。コップに取っ手をつけたら人は取っ手に"誘発されて"取っ手を握ってしまうという考え方です。割れ窓理論もそうですが、窓が割れた都市では犯罪を"誘発してしまう"アフォーダンスが働いています。
 クリエイター倫理が声高に叫ばれ、技術経営(MOT)などが注目されはじめたのも、技術の高度化・複雑化からそのアフォーダンスまで見越した設計が求められるようになったからではないかと考えています。

 まとめとしてはなんてことはない一般論に収束する、開発者やプログラマはネガティブにならない設計を考えなければならないし、人間は対象と目的と表現方法を考えなければならない。そのバランスで多様性が成り立つ。メタで考えるなら著作権も、教育も、みんなそう。

 あと僕のブクマから
2008年01月31日 kuli 詐欺, あとで読んだ
期待と違っていて残念だった。だまされた気分だった。/つか感想をメモしとくものだと思うよ。&ひとのメモをみて一喜一憂のほうがくだらない。というスタンス。

 詐欺タグ…笑

 もちろんこの意見にも同意できるし、僕はグチはtwitterで行っている。より人目につかないし、ある程度目を通す人を限定できる。さっき言ったようにブクマプライベートモードを使う事もできるし、タンブラもあるし、選択肢はたくさんあるから、まずは選択肢を知って、使い分けが必要ですよね。分かりやすい選択肢の俯瞰図を作るのは人類の技術史最大の課題なのかも。