さんざん言われてきたがWEB時代の勉強法について。

たまになんで勉強するのかについて「学ぶことが楽しいから」と答える教師がいるが、そんな押しつけがましい教育観を選びたいとは思わない。何もせず生きても楽しいが、学びながら生きることが更に楽しい。そこにそういう事実があるだけだ。

インターネットというインフラ整備が完成されつつある。浸透率的な意味で。
「知の高速道路」とも例えられる学習環境の整備にも大きな役割を示しつつある。特に各ジャンル先端分野の情報は手に入りやすく、ブロガーによるさまざまな視点による議論もおおいに役立つツールとして可視化・定着しつつある。

しかし、インターネットやWEBページだけが学習環境や道具になりうるわけではなく、ストック情報は書籍で、フロー情報はWEBでと棲み分けがなされてくる。棲み分けが進むと「2ちゃんねるはなぜ潰れないのか」でも指摘されていたとおり新聞がその中間・マネジメント層としてバランスを保つまた別の役割が生まれるだろう。

梅田望夫氏がGOOGLEが書籍をデータ化しておりこれから書籍もネットの時代というが、これもバランスを取って書籍はやはり棲み分けの方向に行くと思う。
音楽がデータ化しどこでも聞けるようになっても、レコードもCDも未だに売られているし、記憶媒体としてのMDやVHSもまだまだ衰退の気配を見せない。あと20年たっても数は減れど存在は続けるだろう。

このように学習環境の変化が著しく変わっていくこれからの学校教育では旧来の学習方法+これからの学習方法を教える必要があるのだ。それが検索力、要約力、連想力であると思っている。
1.検索力

まず検索力だ。言わずもがな膨大な情報のデータベース化が進む世の中では、自分の知りたい情報を効率的に検索する力が求められるのは想像に難くないだろう。苫米地氏曰く「いくら速読を極めても、大学の図書館だけで膨大な数の本があった。一冊数分で読んだとしても一生かかっても読み切れない」と語っていた気がする(手元に元となる本が無いため根拠レスで失礼)。となると必要な情報をその前後の情報とともに効率よく取り出す必要がある。(前後の情報がないと信頼性が低くなるため)。

具体的にはキーワードやタグからの検索をはじめ、論文検索、その分野のスペシャリストの検索、分野ごとに検索サイトの使い分け。

キーワードについては広義のSEOの傾向や、WEBページを作る側の視点に立って考えるとよいかもしれない。検索バーにキーワードより文章を打った方が情報が見つかりやすい場合も多々あるからだ。

またWEBで日本の論文は拾えない。少し専門性の高い情報が知りたい場合は論文検索サイトで。ciniiなどをよく使う。

またその知りたい情報の分野の専門家のBLOGや巡回サイトリンクも大いに役立つ。もちろんその専門家が俯瞰性で売っているのか専門性で売っているのかは考えなければならない。そこらへんは経歴をみればだいたいわかるものである。

検索サイトごとの得意不得意もある。BLOGの検索ならGOOGLEはほぼ無敵だし、YAHOOは電車の時刻検索など日常生活の情報の検索に気軽に使える。最近では百度を動画検索に使っている。

2.要約力

検索したところでそこに乗っている情報が秀逸かどうか、また有用かどうかは個人の判断となる。時間つぶしであれば情報に無駄が多いほど楽しめるし急いで答えが知りたいときに印象論ばかりでなんの生産性もないBLOG記事を見つけると正直唖然とする。

しかし、それらの情報はどれも平等に検索用データベースに登録される。表示に順位がつくが、WEBでは感情的・感傷的な記事ほどリンクがつきやすい傾向があるように思え、情報が増えるにつれノイズも増えるため情報の検索には根気強さが必要だ。それをそろそろみんなが感じ始めた頃だと思う。

そこで求められるのが読み手、書き手としての要約力だ。何が結論で何が論拠や事実で何が主張か。これらを簡潔にまとめる力が要約力である。

はてなで、アルファブロガーと言うだけでブクマがつきやすいという話があったが、ブクマがつくアルファブロガーの記事は多くがその要約が明確である。場合が多い(実際"あとで読む"も多いけどね)。書き手としての要約力としてロールモデルとすればよい。

では読み手としての要約力はどのように伸ばすか。これは意外と学校の教育で行われていた。テストで「次の文章の_にはいる文を○文字で抜き出しなさい」などの問題があったと思う。あれらの問題によって、暗に主張はなにか、事実は何か、結論は何か、問われていたと思ってよい。これらの問題が解ける得意だった人は要約のセンスがある人かもしれない。よく大事なのは主張と事実を切り分けるという視点を持って多くの文章に当たることだと言われる。

3.連想力

失敗を体験させる教育が注目され、体験型教育が多く唱えられ手いる昨今だが、これらにも限界があることは考えてみればすぐにわかる。致命的な失敗はできないし、体験型学習もモチベーションや環境に左右されやすい。それ以前にこれらの教育は"知識定着"に効果が高いことに注目したい。

知識が文献だけでなくWEBに蓄積されるようになり、知識は検索力と要約力でいくらでも自分のものにすることができるようになる。ここで、知識定着だけでなくバランスを取りながら、連想力を持つことを主張したい。

用は検索、要約は知的消費でしかない。それらは知的生産を行って初めて価値を持つ。その生産の核となる力が連想力だ。多くの主張・結論から自分なりの結論を連想する力と態度である。

それだけではない。例えば「人の痛みをわかる」というのは連想力がないとできないことだ。自分が軽く殴られてこれだけ痛かった。なら本気で殴ったら泣くほど痛いだろうか、交通事故にあったらどれだけ痛いか。それを理解することも連想力に支えられている。

しかし人間は連想力、特にアナロジカルな力(類推力)は生まれつき持っている。電気の流れを水の流れに例えて理解するあれである。類推はたまに間違った理解を産みがちである。特に根拠レスな連想はノイズを増やしがちである。高度に発達した連想力は、宗教と区別がつかない。

そこから極端に偏らない連想力を持つことが重要となってくる。連想した結果が妥当かの判断、その連想により誰が幸せになるかなどを考える必要があるあたりは技術倫理と同じである。

結論

ここまで読んでいただけた賢明なあなたならもうわかっているとおもうが、これらの力は従来の学習においても必要とされてきた力だ。物事を主張するには今ある知識だけでなく多くの文献に当たる態度、それらを要約し自分なりにまとめる態度、それから連想し自分なりに主張する態度が必要だ。

そしてWEBの力でいつでもどこでも意見を主張する機会が増えた。今まで参政権と署名位しか与えられていなかった社会への主張を、これからはより気軽に行うことができるのだ。そのため検索力、要約力、連想力が、より重要な方へバランスをシフトしてくる。従来は判断力重視だったが、より選択肢が増え、排他的な態度はナンセンスになってくる。

生涯学習を押しつけるのではなく、生涯学習をもし選んだとき役に立つ事実をどう伝えるか、気付かせるか、考え時である。

参考
「調べ方」をどう学んできたのだろう? - 身・技・態(浩坊拾遺) - C3140:Qulaxics