相変わらずタイトルからすごいパンチ力である。一言でまとめるなら、

「個性を語るならまず型から学べ!!」

本書は、ドラゴン桜の作者として有名な漫画家三田紀房によるビジネス啓蒙書。

前半は大いに同意できたが後半の教育を語る場面となると、共感はできるが賛同はできない。

もう2年前の本であるが、書評するにしても今更感が全くない。

本書で終始語られる『型』、この『型』というのは基礎のことを解いているのだが、基礎の中でも具体的な知識でなく一歩引いて"メタ化"した知識のことだと解釈している。

目次は以下
第1章 成功したければ『型』にはまれ!!
第2章 企画もアイデアも『型』でつくられる!!
第3章 これまでの自分を崩せ!!
第4章 タテ社会は素晴らしい!!
第5章 選択肢なんていらない!!
第6章 島国根性を磨け!!


型を知り、組み合わせることで個性を出す。ここにはつくづく同意する。オリジナルを追求する際大事なことは『型』に返ることと『型』を知ることだ。

例えば論文を書くときに重要なのは「再現性」と「新規性」である。ちゃんと型を踏まえて再現できる状態でデータを採集しているか。次にそれらの型を踏まえた上でどんな新しいことを行っているか。この2点が重要になってくる。型を知らなければ語れないモノの中で一番顕著なモノの一つが論文である。ここで重要なのはその型を踏まえた論文が社会を豊かにしようとする目的で書かれていることだ。決して学力をひけらかすために書かれるものではない。

確かに教育者自身がその型を作るすなわち"メタ化"が得意でなければわからないだろう。教員養成課程において、この型を学ぶ訓練の方法として先程書いた卒業研究・論文が取られるのだが、これをレポート程度で終わらせてしまう教育学部の学生もやはり少なくない。もちろん私もその一人であった。

この部分を指摘された事は痛い。だが、論文と同様、教育の目的は学力を高めることだけではないことには注意したい。

学校は何のための装置か〜教育をめぐる経済学
デューイは、学校教育制度は3つの役割を果たす、と主張する。第一は若者がりっぱな社会人として人間的成長をする助けをする「社会的統合機能」。第二は、経済体制が必然的に生み出す不平等を是正する「平等主義的機能」。そして第三は、子どもたちの固有性に応じて、その身体的、知的、情緒的、審美的な能力を発達させる「人格的発達機能」。デューイは、この3つの機能を備えた学校教育制度が、資本主義および民主主義と相補的な関係を築くことで、公正な社会を構築できると考えた。


なぜ個性化が進められたかをちゃんとわからなければならない。
本書で例示されていた箸の使い方がとことん議論され尽くされた上で現存しているように『型』ばかりであることの弊害も実は教育ではとことん議論しつくされている。

1つ目は行き過ぎた画一化・管理・縦社会の結果戦争を産んだと言う歴史。
2つ目に選択肢を奪わないことが重要とされていること。
3つ目に裕福になったことで生きる目的が多様化したこと。

トップに立つ人間が判断ミスを犯さないとは限らない事から、学力ばかりを詰め込んだ戦争の歴史を作る人間を育てるくらいなら着飾って俺個性派?なんて言ってる大人の方がまだ平和だ。無意味な規制を増長するような教条主義でも困る。バブル時代、型にはまった幸せが幸せではなかったと人々が確認したとき、何が幸せかわからなくなった。それでも親のすねをかじっていれば働かなくても生きていける環境だけ残った。その結果何を目標に生きるべきという「型」が崩れたのは本書にある通りだし、それから本人がよければそれでいいという風潮ができあがってしまった。
 
個人的な意見としては、影響力のある地位に立つ人ほどなぜそこにあるそれが必要かを考える態度が必要だ。二次方程式は適切な判断をする上で必要な学習だ。知的消費でなく知的生産を行える事が重要な態度となってくる。

最終的にバランス論になる事も著者はちゃんとわかっているだろう。社会に出て順応するためには型を、社会で活躍するためには型を踏まえた個性と、型から応用を考える態度が必要となる。ゆとり教育はその応用を考える時間を確保しようとする試みだったのだが、理解されていないことこそが問題だろう。システム自体よりもシステムを実行する時のバランスの偏り、つまり「個性化ばかりに目が向くこと」、問題の本質はそこにあるだろう。

参考:「ゆとり教育」の先に…自信も失った若者たち