そうなんだよね。価値観の違いを知る、尊重する、争いを避ける。寛大さが重要な力量となる。

道徳教育は公立学校では無理なのダ
☆どこの学校に、「法と法律と道徳」の違いを教えることができる教師がいるというのだろう。教えることはできる。しかし、それはあくまでも一つの価値観。公立学校は、偏った価値観を教えることはできないのが日本の法システム。

☆法律的に罪に問われなくても、良心の呵責を感じる人もいれば、まったく感じない人もいる。そこの境をどうやって教えるというのか。

☆教えられることは、コミュニケーションによって、たがいの価値観の違いを知り、尊重し合い、闘争や葛藤を回避しようという行為ぐらいだ。それが道徳だというのなら、それはそれでよいが、常識からかい離している、こんなメタ道徳は、ますます教師は理解しようとしないと思うがいかに。
WEB時代のモラルとは何か。うだうだ語るつもりはない。

一言で「受け入れること」だ。排他的に規制することによる解決より、受け入れにより解決することがどれだけ多くの物事を解決することか。皆それで幸せになる。

自分も他人も、行動を一旦受け入れた上で、適切でないと思えば正せばいい。行動はその後の判断でしかない。そこに善悪は存在しない、あるのは長期的に見て適切か、妥当かである。

技術によって今までタブーとされてきたことが問題化したり、それが常識となる。パラダイムシフトだ。過去の革新を受けて時代が変わったことを教え、これからの時代にどう合わせていくかを考えるのが技術の授業である。技能とともに技術者倫理を考えなければならない。

WEB時代と書いた理由はそこにある。端的に現代と言いたかったのだが、農業革命・産業革命・IT革命(WEB時代)が来て、もうすぐ医療革命が起こる事を意識したからだ。

技術教育の指導要領もそれを受けてか生物育成の技術という分野が入った。
クローンの技術やES細胞など、人間が命を簡単に作る技術が発達してしまうと、今まで「死」を絶対的な基準に置いてきた価値観ががらっと変わる。

ここで何が正しい善悪だと叫ぼうと意味をなさない。我々には受け入れることしか出来ないのだ。

今でさえ安楽死問題などで、「死」という価値基準は揺らいでいる。情報の多様化がWEBで加速され、統制やコントロールによる収束化は不可能に近くなった。であるからこそ、「受け入れる」事が唯一の適切な行為である。物事を善悪で判断しモラルが無いと諭す行為こそモラルが無いと思っている。寛大さこそがよりよく生きるための道徳力である。

もちろん受け入れる事は残酷なことだ。「強くなければ生きてはいけない、優しくなければ生きる資格はない」という言葉があるが、強くなければ優しくなれない。