先の「自分探しが止まらない」を読み終えてまもなく、またmixiで犬の貰い手を探しているという日記が増えた。ペットショップがつぶれて血統書付きの犬の貰い手を探しているというものだ。

 最近のペットブームの影響でペットショップがつぶれるようなことは考えにくい。ペットショップという仕事も繁殖させて餌やりと適度なケアさえしていれば、特に珍しくもない動物たちがその愛らしさだけで一匹数十万の値で引き取られていく。従業員ひとり雇うのに月2匹売れればいい算段なのだからいい商売だ。

 考えればわかるであろう事なのだが、そこに現代の落とし穴がある。出所が書いていなくとも友だちから回ってきたメールや日記であるという裏付けから怪しまないのだ。関西の友だちと東海の友だちが同時に書いていたから面白い。


何かに書いてあったがこの手のチェーンメールが止まないのは「善意のインフルエンサー」によるものらしい。

「自分の出来る範囲で何かしてあげたい」という善意が何かの媒介を通して繁殖しだす。犬の件でも「自分は飼ってあげられないけどメールなら出来るし、もしかしたら飼い主が見つかるかも」と後先を考えずに行動する。

 これは募金団体の名前も確認せずに目の前に差し出されている募金箱にお金を入れてあげる心理と似ている。日本のユニセフを名乗る協会ですら何にお金を使っているかわからないようなのに(ネタかも)、募金一つでもあなたの善意が何に使われているか確認が難しい。それでも自分の満足のために僕らは募金をし続ける。

大半の自己啓発書やBLOGも同じ心理が働いていると思う。

「手軽に誰かの役に立ちたいという希望」
「何か書けば自分の言葉で何かが伝わるかもという期待」
「人の役に立ってかつ自分もインセンティブをもらえるのではというwin-winの関係」


しかし本当にこれらを満足できる規模でやり遂げたいと思うのならそれ相応のコストもリスクも必要だ。言葉を伝えるにはそれなりに表現技術が必要だし、根拠となるデータの収集や、言葉に説得力を持たせるための社会的な地位も必要になってくる。

人のために何かをすると言うことは、自分のためにすることよりも複雑な判断が求められるのだ。

結果人のためと思っていた事柄が、バランスを崩し、不快を味わう結果になることも多いのだろう。その結果、自分を正当化するためのネガコメへ走るのだろう。