後輩と議論になったのだが、技術から法律は作られるものだ。

車という技術から道路交通法が整備されたし、職業の技術として教育技術や医療技術をあげれば、医師免許や教員免許もある程度技術的ノウハウが体系化され蓄積されてきたからこそできたもの。今話題の著作権法や知財法だってコピー技術・制作(製作)技術の進化の結果だし、水道法、通信法もそうだろう。逆に技術がないからという理由で未成年禁止法なんてのもある。

"技術"のありようが法律のベースになっている。ぱっと考えれば分かることだが、これに対して僕らはどれくらいの自覚があるだろうか。

例えば学校カリキュラム政策では科学や数学に力を入れるばかり、分析ばかりで肝心の技術に対する教育はほとんどなされていない。豊かな人間形成を謳っているがその実は真逆な事をやっている。

結果分析ばかりに主眼をおいた教育がなされた親世代たちは、「創り出す」とか「試行錯誤」とか「成長」とか「教育」といった他への働きかけの意識が薄れ、そこにあるものを分析しては「当たり外れ」や「善悪」で判断するようになったのではないか。

もちろんこれは一部の人のみにあてはまる考え方なのだけど、例えば学校と親のつきあい方が変わったという話を書籍でも現場の一部の先生方からもよく聞く。

現代の親たちの一部は、そこにあるもの(例えば教師)が自分の基準より不足していたとき、変えようとか育てよう、成長させようは思わない。取り替えてという「消費」感覚なのだという。

大量消費時代といわれるように、作るより買う方がコストも手間もかからずいいモノが手に入る。生産という概念もどこまで理解しているか分からない。

「人」「もの」「環境」をつなげ、働きかける「技術」とぴうものをあなたはどれだけ学んだろうか。

なお、学校の教育で「創る」授業は二つだけ、「美術」と「技術・家庭」であるが、言わずもがなこの二つはないがしろにされている。時間数も予算も。しかし教育の世界では創造活動が人格形成に非常に重要な役割や効果があることは昔からの常識である。

なぜそれが普及しないか、時間が増えないかと言われると進学や就職のための学力教育へのニーズが大きいためであり、その先に「進学や就職には人格は必要ない」という社会のシステムが潜んでいる。

となるとこれを改善しない限り、これからも悪法はどんどん出てくるだろうし
、今は上手くバランス取ってくれる人が沢山いるからいいけど、そのうち僕らは息苦しい社会で生きていく事になる。

今やるべきは教育の室をあげることではなく教育のシステムのバランスを再調整することなのだけど、そこに焦点を当てているのは現状では一部の教育研究者だけだ。

確実に言える事は、「技術は社会を変える」。
その自覚を社会にどのように促すべきか、しばらく考えてみたい。