マナーと迷惑と権力、または「あの人どうにかしてください」
もちろん念のため書いておくと「何があっても警察を呼ぶな」とかいう話じゃありませんよ。そうではなくて、些細な「不愉快」を抑えるために権力におもねることは、すなわち、そのような些細な領域にまで権力の拡大を認めることにほかならない、ということです。そうやって社会生活のすみずみにまで力の支配を行き渡らせたいのでしょうか。権力は必ずしもあなたの味方とは限らないんだけど、「お上」に「あの人どうにかして!」と訴える人々は、実際には権力に栄養を注ぎ込んでいるわけでしょう。そんなことが広がっていくと、なんでもない人の行為がいつ「迷惑」認定されるかわからなくなる、そういう想像力は必要だと思います。


マナーに対する不寛容もケータイのサイト規制も、環境問題も保険も同じ構造でできてるなと思ったので書いておく。

マナーの悪化、事故の増加、少年犯罪の凶悪化。そんなものがあろうとなかろうと、声高に叫べば、そこに規制しなければと言う需要が生まれる。需要があればそれを満たすサービスを作る。それがビジネスだ。そんなビジネスを国主体でやろうというのだから問題である。
(そもそも政治家で統計データでなく国民の意見を方に反映させるビジネス「政治屋」だという意見は、本記事では置いておいて)

社会の形が変われば価値軸もシフトするんだから、「今まで考えられなかった一線を越えてしまった」ことに対しての議論は慎重になるべきだ。一言目に「あり得ない」はありえない。

たとえば車がいい例で、昔は最高速度なんてたかがしれていたろうが、今では時速300キロ程度出る車なら珍しくもなんともない。しかし公道で出せる速度は時速60キロ。

社会の形が変わる一番顕著な例は技術の進歩で、昔はメディアなんて新聞・テレビしかなかったのが今やインターネットによるメディア、ケータイによるメディアなど第二第三のメディアが生まれつつある。

車の例のように奥行きが増えたときのボーダーの引き直しは慎重に行う必要がある。限界の速度が100キロだから60キロとしていたものが、300キロだせるのに180キロにはなるべきじゃないのは体感的にわかるはずだ(速度はあくまで喩え)。

同様に、インターネットや携帯電話の普及により、情報へのアクセスの敷居は大いに下がった。これに対してボーダーの引き直し、すなわち情報が有害だから規制というのは慎重な議論を要する。

確かにある程度規制は必要だけど、それは社会通念とか、倫理観とか、従来は目に見えないけど確かにある自主規制によって守られてきた。もちろん一定率で不都合は生じる。



話を戻そう、何か規制を作るとき、管理機関、規制システムが必要となる。複雑になると、中間層がある方が効率化できる。

1.必要かどうか議論が必要ものを必要だと価値づける
2.それがないと危険だと必要以上にアピールする
3.しかし社会は変わり続けるので半永久的に需要が発生する

この黄金パターンが最近は嫌いなのだ。

たとえば保険のCM。
確かに何かあったときのために保険は必要だが、必要以上に「ないと危ないですよ」と不安を煽る。「あれば助かる」と、最近のCMでは言わなくなった。さらには「思いやりの代わりに」などと言い出す始末である。
確かに「怖いなら保険をかけとけばいい」より「保険がないと怖い」のほうが、契約数は伸びるだろう。それが健全かという議論は慎重を要する。


同様に、環境問題。温暖化の存在はまだ議論されているし、温暖化の危険性だって中長期的な視点からは疑問視されている。確かに環境は重要な要素だ。もっと言うと大事なのは持続可能かどうかと言う判断であって、温暖化はその一例に過ぎない。それでも温暖化対策にいいと言えばものが売れる時代になってしまった。これが健全かどうかと言う議論は慎重を要する。

同じく、有害情報規制。美術館で興奮する人もいれば性描写で芸術と感じる人もいる。大事なのは隠すことでなく、バランスよく与えることなのだが、インターネットは情報の偏りを加速するという側面も持ち合わせるので難しい。それでも規制をする方向で政治は動いているし、するとなればフィルタリングを行う機関が必要となりそこにお金が流れる。

有害情報に関して言えば少なくとも親や友人などの適切なフォローがあれば、ある程度バランスをとれるはずなのだ。しかし現代では断片化された個人が断片化された情報を体系化し価値づける。それを社会と照らし合わせて整合性をとろうとしないから(もしくはずれた整合性をとってしまうため)悲劇が起きる。結果情報が有害であったという議論が加速する。余計に偏った情報だけが氾濫する。これが健全かどうかという議論は慎重を要する。

ついにはマナーアップ。マナーが必要なのは従来、金持ちだけだった。それが、マナーが守れているかどうかを一般人における社会ステータスとすれば、マナーアップ講座にビジネスチャンスが生まれる。歩きたばこの規制、路上パフォーマンスの規制。

規制する側の市民団体が今日「この町のイメージダウンをさせないため」と言っていたが、あからさまな規制に縛られた町のどこに魅力があるかを教えてほしかった。

昨今の知的財産議論もこのパターンの中にはいると思っている。

これらの現象はよい関係性を気づけていない裏返しなのだとおもう。むしろこちらの方が問題で、(それは一部では昔から当たり前なのかもしれないけど)信頼関係のバランスが悪いのだ。

子供は大人たちを信頼しすぎている。だから許してくれると思っている。
大人は子供たちを信頼できていない。だから少しのマナー違反も許せないと思ってしまう。

関係性の崩壊とそこに生まれるビジネスチャンス。それがある限り不健全なループは回り続けるし、いつかその関係性が当然視される日が来ても、それは仕方ないことだと思っている。

ただ僕の関わっている子供たちには「みんなが一歩づつ譲り合えばみんなが幸せになれる関係を作れる(いわゆるwin-winの関係)」ことを教えている。まだまだ体験的に理解するのは先だろうが。