いや、面白い。

目から鱗どころではない。

頭文字D、浜崎あゆみ、そしてケータイ小説。すべてに通じる若者たち価値観の移り変わり。バナナ色の表紙。

はっきり言う。自分を見る目が変わった。
自称ケータイ小説評論家、id:gotanda6こと速水健朗氏の怪著。BLOGは2つあるが個人的にはB面の方が好きである。

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最初に言っておくと、本書は文献的な裏付けは用いていても数値的な裏付けはあまり用いない。似ているかどうか、ほとんどが主観で語られる。が、それが非常に面白い。ただのレトリックなのか真実なのか、予想以上に妥当性を感じ、必要以上に信頼性を感じてしまう。本書で最後に鳴らされる警鐘もかなり説得力のあるものであった。

今まで語られていたケータイ小説批評はたとえばケータイ小説と言う輪郭から内側の表現技術なり、心理描写なり、様々な文学的技術を見つめたものがある。
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もしくは、ケータイ小説と社会の関連性、たとえば本書の冒頭で語られるような文学的に認めていいものか。児童図書館に携帯発小説本を置くべきか。ケータイ小説という輪郭から外を見る、そんな批評があった。
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それに対し、本書は面白いスタンスを取る。時系列的にヤンキー、そしてコギャルというマイナー文化をおい、まさにメインカルチャーでなくサブカルチャーに付随する表現媒体としてケータイ小説を分析する。
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たとえば「頭文字D」「NANA」「ティーンズロード」「浜崎あゆみ」。ケータイ小説をそれらに照らし合わせて見直すことで、ある類似性が見いだされる。

簡単に本書を要約しておこう。

第1章で浜崎あゆみとケータイ小説の特徴を分析、その親和性を説く。
第2章ではケータイ小説に書かれるリアリティを考察する。そこにはヤンキー向け雑誌と同じ傾向が存在したというのだ。
第3章ではそのヤンキーやDQNなど、そのマイノリティたちのスタイルの変容を現実社会とケータイ小説からみる。
第4章では、携帯小説の流行の裏にある変化を見る。大人たちが口酸っぱく言及する今の若者たちの態度は実はある警告を示している。

ネタバレは本書を読むか他所の書評を読んでいただくとして、いくつか雑感を書きだしてみたい。

1.若者が求めているのは自分らしさなんかじゃない
本書の中頃にぽつんと何気なく書いてある一言。
それは刹那的な何かではなく、また学校の教えている「自分の好きな仕事に就くことがゴールだよ」と言う洗脳に、若者はかかっていないという事実。
これが非常に印象的だった。
皆地に足の付いた職業を求め、大人になりたがっていると読み取れるという。

2.安室奈美恵
浜崎あゆみを語る際、山口百恵、中山美穂、安室奈美恵、浜崎あゆみを笑わない歌姫と位置づけ、さらにその類似性と違いを本書では語る。
ちょうど自分の場合安室世代で、初めて買ったCDは安室であったし、リアルタイムにMAXからのデビュー、安室の母親の死、SAM氏との結婚、離婚後の活躍などその活躍ぶりを見ていた。今の中学生に安室奈美恵を知っているかと聞けば知らないという。個人的には浜崎もそろそろそんなポジションになるのではと思っている。

3.携帯という技術
技術が社会を変えた例として非常にわかりやすい例ではある。技術を教える立場としてはこのあたりの話は興味がある。変えたのはマナーうんうんをはじめとするコミュニケーション、そして人と人との関わり方が物理的に変わったという。その結果どのような弊害が描写されているかが、本書の醍醐味なのだ。これについては第4章で触れている。インターネットの世界はまだ軸が揺れている。だが携帯の世界では不思議なルールが確立しつつある。キーワードであるAC、アディクション、いわゆる束縛彼氏。

自分がその傾向に当てはまるのではないかと少し凹んだと言うのが率直な感想だった。

本書を手にとって、試しに、中学生に実際にきいてみたが、ケータイ小説はホラーしか読まないという拍子抜けする答えが返ってきた。

ケータイ小説もオタク文化のように"ミリオンヒットでもマイナー"化しているという印象はぬぐえないのだが、その裏にある関わり方の変化には注視せざるを得ないものがある。

正直本書を批判できず、説得されてしまった自分が悔しいがそれだけ面白い視点が刺激的であった。明日、同僚に勧め、近いうちに議論してみたい。