【教育】 「ゆとり教育を導入したころから、日本の教育は悪くなった」…米カーティス博士★2
★「ゆとり教育を導入したころから日本の教育は悪くなった」

・日本の政治の特異性を米国の政治学者の目から分析した著書などで知られる
 米コロンビア大学政治学教授で早稲田大学客員教授のジェラルド・カーティス博士は
 2008年7月15日、東京・内幸町の日本記者クラブ会議室で現在の日本の教育のあり方を
 こう分析した。
 「ゆとり教育で日本の義務教育の水準は低くなり、日本の大学は勉強してもしなくても
 評価は同じという深刻な問題を引き起こした」という。


反応のステレオタイプさにはいい加減うんざりするのだが、本質的な部分でもう少し知っておかなければならないところがある。むしろ大学の教育の中にこそ問題がある。印象論的だが書いておこうと思う。
1.大学卒業時点で学力がないことは問題ではない
 学力低下は問題かと言われればそこは程度問題なのだが、今の時点では心配するような水準ではないと思っている。学力低下論など実は戦前からあったのだから。
 もっと言うと日本の社会はアメリカと設計が違う。
 アメリカの大学では会社で行うことを大学で学び即戦力として迎え入れる傾向がある。大学を卒業する学生の多くが学位だけでなくロジカルな態度を持ち合わせていると判断される。(もちろんそれが人間性やロジカルな技術の使い方と結びついてるわけではない)
 一方日本では、企業内での教育が重視されており、就職時には知識ではなく研修のために"学ぶ姿勢"を求める傾向がある。
 学校での教科教育は、その担当の先生ですら役に立たないとかおもしろさを知ってくれればいいとか、その程度の扱いしかしていない場合が多い。
 学力が重要なのではなくいかに従順に知識を吸収し仕事をこなしてくれるかが企業が求める学生の姿である。これを本田由紀氏は「棒高跳びモデル」と「赤ちゃん受け渡しモデル」と表現している。

2.日本での大学の役割
 大学の役割は、教育と研究と地域貢献である。
この比重の置き方は各大学によって変わるのだが、こと教育においては大学教員は教員免許を必要としない。
 島宗理氏は、著書インストラクショナルデザインの中で、「教員免許がないために、大学教員の教育の質が把握できる状態ではない。教育の評価が行えていない」と指摘する。
 また、大学の仕事である研究は、夏休みの自由研究程度のものとなっているものは僕の周りでも散見された。アンケートを採り実態調査と言って集計し、その考察を書いて終わり。行動主義、構成主義、情報論的学習。それら教育研究の手法や立場を踏まえず、また社会学や心理学的な知見を踏まえず感想文を書く。
 彼らの中には教員志望者もいたが、彼らの多くが「教育をよくしたい」ではなく「教員になりたい」というのだ。

3.問題の本質は多くの人間が評価方法を知らないところ
 そもそも教育とは人格の完成が目的であり、学力や知識をつけるためのものではないと言うことをまず知らねばならない。数学の問題が解けても人間的に寛容でなければ学校で教えたことは意味がないのだ。
 これについては現場でもある程度コンセンサスができつつあり、自主性や創造性などの教育項目がここ数十年で教育価値として付加されてきた。
 だが、従来教条主義や躾主義で行ってきた生徒指導が、生徒の人格を尊重する方向に社会的に変わりつつある。この中でいま現場が混乱していることは、人格の評価の方法を知らないと言うことだ。
 なかには人間の価値なんて計りようがないと言い出す教員もいると聞く。だが、研究の多くは「世の中はすべて数値化できる」という前提で動いており、調べればいくらでも評価方法や指標が提唱されている。大学で学ぶべきはこの評価の方法であり、評価方法も実は玉石混合で、その評価の妥当性を見抜くべき力なのだ。
 「水からの伝言」が教育現場の道徳で爆発的に流行ったのも、その妥当性を評価する力が無かったためではないかと考えている。これは一般論化もできる。ゆとり教育が効果があったかどうか評価をできる人が少ないからこそこうして問題が沈下しないしステレオタイプ的に話がぐるぐるまわりいたちごっこが終わらない。
 実は、過保護にしない方が子供たちは成長するという指摘も方々から出てきており、ゆとり教育は方向性としては間違っていないし、体罰や規律・厳罰を推奨する主張は日本の差別主義の名残で悪しき習慣だと思っている。
 問題は今現在が教育手法の移行による混乱期だり、その認識を持っている一般人が少ないこと、マスコミがそれを認識させるン所とが妬く方向にばかり報道を偏らせていると言うことである。

4.評価手法を含む技術の継承問題
 教育現場では新卒でも常勤講師でも担任を持たされるし、昨日まで学生だったものが急に教壇に立って先生とあがめられる。学校は基本的に6年ごとに転勤させられ、人間関係などは学校によってかなり違いが見られる。この中で近年問題にあがっているのが技術の継承であり、教育手法を教えてくれる現場の先生は非常に少ない。
 僕の場合は学生時代にある学会で中原先生と出会い、その教育研究の重要性と難しさを知った。
 それから恩師に教育研究の手法と現場の問題点を教えてもらい、時には議論させてもらうこともあった。僕の恩師はあるメソッドを好んで使う。一度失敗体験をさせ、それから一緒に考え、何が正しいかを考え教え実行させる、いわゆる「自己啓発メソッド」であった。

5.教育現場には自己啓発メソッドがない
 ここ最近社会学者やジャーナリストがこぞって自己啓発メソッドをバッシングしているが、その問題点は、一つは洗脳と同じメソッドと言われていること。パニック状態で教えられたことは強くすり込まれる。二つ目にその自己啓発後のフォローがなく、結果失敗を繰り返しては自己啓発を行い、それが常習化することでわざとお金を儲ける構造にしているのではないかということであった。
 現に会社に入っての自己啓発メソッドは「学校でおまえが学んできたことは間違いだ」というバッシングから始まると言われている。学校教育の内容はバッシングや失敗体験の種とするために現在の教科教育・時間配分であり、そこに企業団体からの圧力があるのではと陰謀論がささやかれるくらいだ。(実際に無言の圧力はあると思っているし、技術教育が充実しないのもそこに原因の一部があると思っている)。
 そうして半ば宗教的に職業観を植え付け、会社のために一生を捧げるようし向けるというのが日本的経営の構造とされていた。
 問題点もあるが、正しく使えば正しい道に動くのが自己啓発メソッドで、僕はそれを否定するつもりもないし、現に僕の恩師は非常に手厚いフォローを今も続けてくれているしそれに対して非常に感謝している。
 で、そのような強烈な体験を現場ですることがないうえ、教壇に立てば教室は自分の王国だと錯覚してしまう環境にある。研修のシステムもあるもののその多くが教育技術や生徒指導技術の講習であるという。この構造こそが教育の最大の問題点であり、教育界隈はクローズドで経験重視の職人の世界になりつつある。

 誤解してほしくないのは、現場の先生は多くが非常にモチベーションが高く勉強をしている人間だ。ただ評価の手法を知らない人が多いために、ロジカルであれば正しい情報として受け取ってしまう傾向が少なからずある。教育はほとんどの人間が受けているものであり誰でも語れるものであることが問題だと指摘されることもしばしばであるし、教育書と呼ばれるものの大半はでたらめだし教育評論家でさえトンデモな世の中である。

 島宗氏の言葉を最後にもう一度引用する。
しっかりした評価システムがなければ、インストラクションは改善できない。生物学や化学、医学や工学のように、客観的な評価システムが確立している分野では、10年どころか数年単位で技術革新が進んでいくことが珍しくないのに、こと教育に関しては、10年どころか、100年前と比べてもそれほど技術革新が進んではいない。たとえば、小学校の授業授業風景を比べてみれば明らかなように。