何でもかんでも社会構造と教育のせいにしたい!!っていうのが3日前の僕だったので書く気もなかったのでかいてみよう。

というか何でもかんでも教育のせいにしちゃダメ。

経緯は
なぜ学歴が問題なのか(色々とまとめてみた) - 院生兼務取締役の独り言

あたり参照。論点をまとめる力はさすが京大生。

吐き捨てるように思ったことを書いてみた。
1.学歴って何よ??
と言うわけで考えてみよう。学歴って概念は元々大正期くらいからあった。戦後くらいから都市部の中産階級の中で「できるだけ高い教育を受けさせることによって、自己の家とその子の社会的地位を向上させようとする」イデオロギーがあらわれた。一方で農村部では経済的余裕がなかったから「子供はできたら学校いくより働け」状態であった。この状態でなら学歴はある/なしで語れるだろう。

現代において学歴はある/なしでなくハイオアローである。平成18年度時点で高校進学率は98%を越え、大学進学率は52.4%。二人に一人は大学に入学している。

そもそも学歴なんてものは保険で、同じ能力の人がいた場合、高偏差値の大学の人をとる、程度の判断材料と考えた方がいい。

あとは社会構造についてはこちらが非常にわかりやすい

2.本当にコミュニケーション能力なの??
WEB時代においてこれは禁句に近い一言である。アメリカでは中学生や高校生がいかに危険なウイルスをつくれるか競っているという話が問題化したが、日本ではウイルスではなくジェネレータがそれに代替しつつある。

個人でジェネレータつくって話題になって今はアルファなんたらってブロガーも少なくはないし、コミュニケーション能力がなくてもサービスはつくれる商売はできるのである。

では何が足りないのかと言われたら僕は"生産力"だと思っている。

「女。京大生。」騒動について一言。 - Thirのはてな日記にて
私は、人生において最も必要なのは、現状を分析する能力とその分析結果に対し適切な論理的応答を行う能力(現状分析能力と論理的思考能力)であると考えております。


この論理的応答の内容として、もしくは別次元の能力として「新しいものをつくる」能力は非常に重要なものだと考える。ゲームで高得点をとれる人よりゲームをつくれる人が重要なのはたしかなのだ。

新たな製品、新たなもの、新たな人間関係など、生産力はコンピテンシーの一つとして、実は軽視される傾向にある。学校でものをつくったことが記憶に残っている人、それが人生に役立ったと言う人はどれくらいいるだろうか。

3.教育のえん罪
社会に没落エリートが存在するなら教員の世界にも没落エリートは存在する。それは働き蜂の法則で、働き蜂の集団に2割働かない蜂がいるのと同様に、教員の中にも2割いわゆる不適格教員と呼ばれる人間がいると考えていい。

だが、ここに面白い現象が存在する。教員がダメでも子供は伸びるのだ。
むしろ教育的に過保護でない方が効果が高くなるなどの教育研究も(論拠に乏しいが)散見されるようになっている。人は役割で伸びる。教員側は、。「なぜ勉強しなければならないのか?」と問われればそれなりに答えられるが、それが合目的的かと言われると違う場合が多いと言うのが実情だ。

子供の成長がある意味での生産だとするならば学歴と生産力は相関するが比例しない。
たぶん問題のキモはここで、みんなステレオタイプ的な反応ばかり見せているので訂正すると、高偏差値大学ほど生産力の高い教員が多く、その教育を受けられる人の割合も高い。だが、そういう教員の教育を受けられない人最中にはいて、それがここで言う"没落エリート"だと僕は思っている。

学校の教育内容はすべて生産を理解することに繋がるし、学校教育において生産を教えることが(ワークショップ的な意味での)最大のフォローだと思うのだが、これがうまくいっていないことが教育側から見た問題だと言っておこう。

4.あとは割合の問題。
たぶん犯人や責任を1つの事象に求める態度が一番問題。個人的には社会の問題が6割、個人の問題、環境の問題、教育の問題がそれぞれ2割、あと、日本がどうなりたいのかって言うビジョナリーが乏しいのが一番問題だと思う。