パネェ怪著。


2005年第一刷、手元にあるのは2007年の第六刷だが、内容として全く色あせていない。

気鋭の社会学者「ニート」問題の本質をシャープに読み解く

なんてオビは全く無意味。そんな内容は本書において中心的には書かれていない。
現代の病理とも呼べる構造、現状分析など、非常に質が高い。鈴木謙介がなぜカリスマパーソナリティなのかがわかる一冊。


1.要約

簡単に言うと相互監視社会、データベースとの往復など、社会不安(本書では体感治安と表記)が増すことで、躁鬱、労働観の液状化、日常のカーニヴァル化が起きているというもの。それはぐるぐると回り、相互監視→カーニヴァル化→さらなる監視と、強化される。

2.相互監視と社会不安
テレビ、ケータイ、インターネット、その本質的技術であるデータベースに誰でもアクセスできるようになったことで、有名人だけでなく、ネットワークにアクセスできる一般人であれば、常に監視されている状態にさらされる時代になった。そのため、誰かが監視下で問題を起こせばそれをやじる行為が起こり、ネット上の『祭り』や『炎上』のようなカーニヴァルが起きる。それに対し躁状態、相対的な鬱状態が起こることで、単純な『楽しい』以外の感情も含め祭りを求める状態となり、強化がおきている。

3.現場の実感
この影響を一番に受けているのが教育現場である。ベテランの先生に聞くと「リーダーシップをとりたがる、とれる生徒がいない」という。同時に会話に必要以上の自虐を入れる傾向がある。
教育現場に昔から同調圧力はあったが、それを強化しているのはケータイコミュニケーションをはじめとするデータベースによる相互監視である。目立ってはいけない、テレビ・ニュースの変更報道のように祭りの生け贄にされるためである。

4.鈴木謙介の見解
私が危惧しているのは、こうした議論が結果として、若い世代への「説教」として機能した結果、第1章で述べたような搾取と排除が進行し、また、その中で「夢から覚める」ことに成功したエリートへのあてがいが行われた結果、社会分断がさらに加速するのではないかということだ。(中略)「いかにあるべきか」の前に、「いかにしてあるのか」を徹底的に問う、というのが、社会学という学問のあり方だとするならば、現在の私たちは誰も「いかにあるべきか」を語りうるほどに、現在についての知識を蓄積していると私は考えていない。

と、社会構造の変化を危惧するとともに社会学批判が行われる。

5.本質は何か
不寛容な社会である。
 その前提として不安社会とは、たとえば町中や近所ですれ違う人に対して信頼して挨拶をするのか、何を考えているかわからないと考えて無視をするのか、ナイフを隠し持っているかもしれないから距離を置いてすれ違うのかという指標ではかれる体感治安の悪い社会である。
 人々は不安に対して、ハイリスクな集団を作り出し、そこに原因を求めることで一定の安心を勝ち取ろうとしてしまう。日々の報道に対して、不寛容な対応を求め、報道はいっそうハイリスクな集団を求め、カーニヴァル化する。しかし、そのハイリスクな集団の明確な輪郭線はなく、ハイリスクな集団を異質なものとして排他的に激しくあおるほど、自分がグレーゾーンに入ってしまうかもしれないという新たな不安が顕在化する。
 ハイリスクな集団の大規模化や多様化により、そこには新たなコミュニティと文化が生まれ、自分からコミュニティに入りたがる人が増えるのではという仮説は以前述べた
 同時に人々はお互いを攻めることばかりに固執し、お互いが許されたがっていることに気づいていない。

6.これからどうなるのか
 どちらにしろ技術とはつきあっていかなければならない。であれば、監視のない世界に行くか、監視に慣れるしかないだろう。また、労働観がいくら液状化しているとはいえ、人々は自己実現をあきらめることはできないだろうと思う。そして青年期を得て、自己実現は社会貢献でしか得られないものだと皆結論づけ始めているように感じる。
 一つの仮説として海外ボランティアがこれから増えていくだろうと考えている。日本はストレスフルな環境であるし、青年海外協力隊や青年の船など、海外ボランティア派遣の数は年々増えているし(pdf)、「あいのり」のようなテレビが流行っているのもそういった社会貢献に対するあこがれがあるのではないかと考えられる。
 少なくとも海外派遣ビジネスはこれからもう少し盛り上がるだろうしカーニヴァル化した社会に自覚的であろうと無自覚であろうと、日本の(精神的な)居心地が悪いと感じるのにかわりはないのだから。