年始めから少々刺激的な記事が並んでいる
国民が教育を考える年
「漢字は詰め込みが一番」

「理想は、棚上げ、結果を作れ」、

「目的のために手段を選ぶな」

などの話を、教育委員である蔭山氏がしたとことの報道です。

とあるが実はこれは誰も悪くない。みんながみんな違う方向を向いて叫んでいるだけである。

今回の参考書は以下。

理想の教育とは
理想の教育(活動)とはなんだろ。言葉や表現は違えどだいたい以下の3つに収束されるのではないかと想定している。
1.知識だけでなく人格形成・人間教育として効果がある
2.楽しみながら知識を定着させ、その知識を課題解決に用いることができる
3.自主的に学び合い、教える側も知識ややりがいや発見など得るものがある

1.量から質への転換は結構堅実なセオリー
・一定の量の反復をこなせば質へ変わる
 これは確かな学習方法である。記憶、知識の定着だけでなく、概念化、発想の転換など反復練習で得られる教育効果は実は高い。

・教材研究の時間がない。
 現場の人間から言わせてもらえば、教員が全員十分に教材研究の時間をとれているとは言いにくい。小学校であれば日に4?5教科の授業を担当する訳だ。日中は生徒の安全管理に時間が割かれる。それに加え放課後は教室のデコレーションや生徒の把握、課題の採点、保護者への連絡対応、公務分掌などに時間が割かれ、翌日の授業の仕込みなど十分に行えない。
 ある研究校で働いている知り合いの話ではピークになると放課後夕食を食べて学校へ帰ってきて教材研究や文章作成を行い、朝5時に帰宅して朝6時に出勤する教員もいるという。残業代は出ない。
 その努力の結果、生徒たちは小学2年生でも国語辞書の使い方をマスターしているという。成果は素晴らしいが、労働対効果で考えるととても効率的とは思えない。
 すべての教員が名人芸を持った職人ではない。教育で満足いく成果をあげると言うことはそれ相応の苦労かそれ相応の教材が必要である。
 そうであるなら教員の労力の軽減の策としてワークシートを与えてひたすら反復させる100ます計算や漢字ドリルは良策である。

2.学力は学んだ力でなく学ぶための力
・日本語は何から覚えたか
僕らが子どもの頃、まずは文法より漢字を覚えたはずだ。単語を並べることで母親をはじめとした周囲の人たちは推測してくれる。
 それが語彙数を増やし、文法を習うことで的確に言葉を把握、伝達できるようになる。ある程度習得が進むと文章の文化的側面を考えられるようになる。
これも段階的で反復していないだけで量から質への転換の一つである。

・漢字を覚えることは手段
 漢字を覚えることが重要なのではない、漢字を覚えることでより多くの人の思想や文化を理解することが重要である。勉強しなくても精神的な発達は促されるし学習もしていくだろうが、勉強が精神的な発達を加速させるのだ。
 それこそ人間教育であり理想の教育ではないのか。

・習熟度という概念
習熟度別クラスなど、到達度別でクラスを編成し学習するスタイルが流行してきた。これは学力別でもなければ理解度別でもなく習熟度別なのだ。
 習熟度というのは「知識の吸収力は才能ではなく常に変化する、その鍛え方
の到達具合によるものだ」という概念である。
 ガニエという人だったと思うが学習階層論というのを唱えた。知識には階層があって、階層の知識がきちんとしていなければ上位層の知識を得られないというものだ。
 例えば「2×4=」という問題を解くとき、数字『2、4、8』という下位知識と記号『+、?、×、=』という下位知識が必要であるという。これらが定着していなければ正しい答えを導くことはできない。
 暗記すれば解けるだろうという意見もあるだろうが、それでは解答はできても問題解決はできない。
 事前の知識(習熟度)×新知識=定着度である。この事前の知識が半端であっては次の学習の意義が失われてしまう。

3.目的と手段の取り違え
・楽しむを目的にしてはいけない 
 子どもにとって勉強は仕事である。その子どもが学者を目指しているのでなければ、教科は何であれその分野の学習を楽しむことを押しつけるのは学者と教師のエゴであると考えている。
 例えば理科嫌いな子に理科を好きになりましょうと言って苦手を克服させるべきか算数好きな子に算数の問題を沢山与えて得意を伸ばすか、意見は分かれるが今の時代は得意な者を伸ばすことを優先した方がよいと言われている。
 理由は簡単、自己実現のためには秀でた一芸が必要であること。社会が発展するには自分が得意なものと既存の者を組み合わせるという発想とそれを実現させる技術が必要であると言うこと。
 また「楽しいからやる」を「内的動機付け」、「ご褒美があるからやる」を「外的動機付け」と言うが、それぞれ「楽しくなければやらない」「、褒美が出なければやらない」子が育つという弊害が考えられる。
 実際の社会に出れば、楽しくなくても働かなければならないし、働けば(低くても)賃金はもらえる訳だ。自分にとって楽しいことを仕事にするには高度な技術が必要だ。楽しい仕事をやろうとこだわると苦労する。それならば、外的動機付けで働いて、仕事を好きになっていく方が精神衛生的にもよい。多種多様な自己実現が可能な産業構造、社会構造が実現しない限りは楽しいを目的にするべきではない。
 楽しいは導入の手段でしかない。

・競争を目的にしてはいけない
 一方で学力を競わせるのはどうかという議論がある。答えは「競争は手段であって目的ではない」。競うことで確かに子どもたちは輝く。一方で優劣をつけることは悪いことだという平等思想も未だ偏在する。
 競争をすることは間違っていないが、何のための競争であるかを自覚する事が重要だ。競争原理は教育を効率化する。これは確かだ。

・TOSSの思想
教育法則化運動というのがありもう何十年も前から活動している。チュートリアル通りにやれば必ず児童生徒に知識技能が定着するという教育活動における法則を研究している教師の団体である。
 代表の向山氏は「クラスに1人でも跳び箱を跳べない生徒がいたらプロの教師失格だ」と豪語する。それほどTOSSは効き目がある教育手法である。
 しかし賛否両論だ。それはそれを使う教師が教育手法ばかりに目がいき本質を見抜けない、真意を見失ってしまった教員が増えたためだ。
 元々法則化運動は、教員の負担を軽減するために始まったもののはずである。その軽減した時間を児童生徒たちの人間教育に使うべきなのだが、教員が生徒1人1人を見なくても、どんな生徒を対象にしてもできてしまうのがTOSSなのである。この部分ばかりが一人歩きしており、批判の対象となっている。また向山氏のスタンスの問題点は過去に指摘した
 重要なのは詰め込みを手段として使うことである。よい実践が多々あるのに理想の教育という目的のために手段を選んでいては非効率である


4.問題はバランスって教育審議会も言ってる
・20?30年前からのゆとり・詰め込み・学力論争
 戦後の貧困から立ち直った70年代頃からゆとりを持った教育をすべきだとする議論が始まったそれまでは貧困から立ち直ると言った共通の社会目標があり、教育もそのためのものであった。そこからは社会のクオリティでなく個人の生活のクオリティのための教育という概念が生まれてくる。元々はその詰め込んでいた時間を人間教育に当てようとする試みで行われたゆとり教育であったが、学歴主義の競争原理により学力の差が開いた!などと指摘されてまた詰め込み式に変わった。それが2008年の学習指導要領改変まで10年ごとに右往左往するのだ。過去から何を学んだのかとそのたびに文部省・文科省は指摘されてきた。が、特に学力低下の論拠となるデータはなく、世論を反映させたに過ぎず、過去から何も学んでないのは国民の方であった。
 結局現在もきちんと効果の検証はされていないためゆとりがよいのかその教育の成果が今このブログを読んでいるあなた方である。あなたは今の自分に満足しているだろうか。

・市川伸一氏の「教えて考えさせる授業」を創る
この本は認知心理学者で中央教育審議会教育課程部会の新議員を務める市川氏によるゆとりと詰め込みのバランスを取った授業を行うべきであるという本である。内容の概略はこちらでも確認できる
 実際の実践も乗っているが何も目新しいことはない。が、例示してある実践は知識理解と課題解決の活動のバランスが非常によくとれている。
ゆとり教育では「考えさせる」活動が自己目的化してしまい、学者の思考体験や発見学習ばかりに偏りがちで基礎知識がおろそかになっていたこと、詰め込み式では逆に基礎知識の定着ばかりに重点が置かれ、それによる課題解決、何のための知識なのかが考慮されてこなかったと指摘している。
2008年の新学習指導要領の<リンク:http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new- cs/pamphlet/20071108/001-008.pdf>パンフレットでは「教える」だけでもない「考えさせる」だけでもない「教えて考えさせる」が重要であり、詰め込み式とゆとりによる深化、課題解決活動は両輪で、バランスを取る事が重要である。
その短くまとめられた一文の一語一語に研究者達の生涯をかけた研究の結果が詰まっている。ただの言葉だと軽視しないでほしい。

・アカデミックからの脱却
 実は文部科学省側は常にそのバランスを取って両極端にならないように配慮してきたと言うのだ。
 人の気持ちを考えましょうと言っている先生達がその先生のルールを作った人の気持ちを読み取れていない体裁になってしまったのはじつに皮肉だ。
しかし新学習指導要領で革新的であるのは今までアカデミックに学者がこれが必要だからと決めてきた内容を生きる力として、教養として内容の編成を見直したというのである。教育はさらに過渡期になってくる。
 その中で理想の教育を実現し普及させたいというのであれば、理想は、棚上げし、結果を見える形で示すべきだ。



まとめ
蔭山氏の提案は間違ってはいないが、みんなその裏の歴史や現状が見えていない。言葉足らずなのである。
 頭がいい人たち、仕事の効率のいい人たちがその教育方法は違うと声高に叫んだって、変えようのない現状がある。雑務の多さ、教員のゆとりのなさ、世間からの気体と圧力など、それは教育手法だけに収まらない。
 教師の生徒から信頼、すなわち威厳が社会的に低下していること。例えば同じ話をしたとしても威厳のある先生の話と威厳のない先生の話であれば注目度も違えば定着度も変わってくる。
 従来の管理・威厳的なコミュニケーションが不能になった以上、創造的なコミュニケーションが行われなければならないが、カウンセリングや必要以上に指導技術を要する。それを学ぶ時間も機会も失われている。教員の免許更新制はそれを口実に学ぶための時間を作る画期的な制度なのだ。

 理想の教育を求めたいのであれば質の高い職人のような教員のそろった私学に通わせるか杉並区のような特例校、大学の付属校や研究指定校に行くしかない。もしくは塾や特別な教育活動を行っている団体や企業に参加することだ。
それをすべてに普及するならまず教員の増加、事務処理の削減、教育予算の増加、政策や方向性を批判する前に見るべき者やるべき事は多々あろう。