僕はどちらかというと産業技術を評価する立場なので技術の視点からしか芸術を語れないのだが、ダンスの経験や芸術教育科の教授に教えてもらったこともあるので少し整理するために書き出してみたい。


 まず「芸術」は何を含むか。もとのとしては主として絵画、音楽、文学、演劇、舞踏、映画を指している。しかし一定の精度を超えた技術も芸術と呼ばれるにはふさわしいし、現に呼ばれる場面もしばしば見受けるだろう。いったい何が芸術なのか、その評価方法を考えてみたいし、共有しておいて損はないはずだ。

 まず踏まえておきたいことは芸術の価値を数値で表すと市場価値とモノ自体の価値がある。その芸術というモノの価値について考え直してみたい。
1.芸術とは文化の継承である
 これは学校で教わることができるだろう。いわゆる表現手法というのは古代から現代に至るまで基礎は同じである(と解釈されている)。絵画表現に於いてまっすぐの線を書ける人間は空間図形をきれいに表現できるし、音楽表現に於いてコードをある程度理解してこなせる人間は即興のジャズセッションにも対応できる。その手法としての技術の継承は学校で教えられる。
 そしてその「基礎」こそ世界各国ですこしずつズレをもっており、このズレ、差異こそが「文化」である。
 例えば舞台芸術の世界で「泣く仕草」をするとしよう。日本人は顔を隠したり床に伏せることで深い悲しみを表現するが、キリスト教圏では天を仰ぎ紙に訴えかけるような仕草をする。芸術を解釈しようとすることは文化の解釈とそれを解釈しうるだけの教養が求められる。
 

2.芸術とは歴史である
 その時代を生きたからこそ生まれた作品というのは多い。絵画や歌はつくりたいからつくるモノではない。そこに使命感が存在するからこそつくるのだ。学校で学ぶゲルニカやロミオとジュリエットなどはわかりやすいだろう。戦争の最中の精神状態や戦争の悲惨さを表現する作品は多く、現代に語り継がれているものも多い。「芸術は戦争との対比でしか語り得ない」とする言葉があるくらいだ。
 アウトプットするためには情報をインプットしなければならない。そのインプットの多くが時代背景に影響を受けるというのは想像に難くないだろう。その背景を読み解く行為、その背景を読み取れるという事に資料的な価値があるのである。

3.芸術とは政治である
 様々な時代背景から生まれたからこそ主張を有する芸術も多い。上記のゲルニカという作品には戦争という時代背景を中心に、「反戦」という政治的主張が存在する。同様に坂本龍一やジョンレノンの歌には単純化すると「ラブ&ピース」のような主張が存在するし、黒人文化には奴隷だったという背景を前提に多くのモノが「自由であるべき」を訴えるという政治的主張が存在した。
 もしくは現代の依存的恋愛を風刺した歌や文学は非常に注目を集める。風刺とは「社会のその状態に対して考えるべきである」という主張が含まれる。若者がその表現に共感する野であればそれは芸術と読んでかまわないだろうし、なぜ共感するかを考えるという行為やその対象となる作品自体に政治的価値がある。

4.芸術とは思想・哲学である
 芸術は思想や哲学を表現する手段だ。ある画家は「光はぼやけている」と風景画の風景と空間の輪郭をわざとぼかすように塗りつぶし、ある有名な画家は「人と物は相容れない」と境界線をわざと強調してデッサンを行う。性欲とか女性とか、そこにあるもの感じるモノを思想として芸術に納めるため表現技術は発達してきた。
 同時にこの文化や技術を継承しながらどれだけその型を破壊したかという部分も注視すべきだ。ピカソは写実の天才であったが、「モノをそのまま描く必要はないのではないか」という思想からあの有名な画風になった。と同時に他のアーティスト達を刺激し様々な絵画手法や主義を誕生させた。インターネットの無かった時代のこうしたメッセージ性こそが芸術の本質かもしれない。アカデミックにどのような思想・哲学を表現しているか、筆一本に込められ手いるモノを読み取る行為とその対象となる作品こそ、学術的な価値がある。
 
5.芸術とはその時代の技術の限界である
 ここを読んでもらうと早いのだが、価値のある芸術はその時代において新規性となる要素が必ず含まれている。別に多くの技術や文化を踏襲していてかまわない。それに何か新しい要素を一つだけ組み合わせるのだ。
 例えば世界一直角な金属が存在する。これは垂直な地面から東京タワーの高さまで線を引っ張っても数センチ数ミリの誤差しかでないという技術の結晶で、「芸術の域」と呼ばれるものである。直角な金属はそれまでも存在したが「現代の技術でしか再現できない精度」という新規性を組み合わせたことに価値がある。音楽も同様で、エレクトロポップが流行っているが、従来の音楽の蓄積された文化や技術に加えて現代の音楽編集技術を組み合わせているからこそ、その音楽達に価値があるのだ。


6.芸術とは言い訳である
 自分の中にあるサムシングを肯定するための行為としての表現活動の方が実際はメジャーであり、その中の「人に伝わる技術」の優れたモノを芸術と呼ぶ場合がある。例えば「角のないカブトムシ」を描いてタイトルを伝えずにカブトムシだとわからせる表現は価値がある。いないモノを創造してそれを肯定するために表現と言う手段は存在する。
 もしくは自己防衛活動として、「僕が女性の裸を好きなのは性欲でなく芸術性があるからだ」と言い聞かせる場合もある。大なり小なり「芸術」にはそういう使い方がある。自分の分身としての芸術、芸術に属人的な価値は見いだす必要はないが、解釈の一つとしてそういう部分があるというのは踏まえておきたい。


7.何がすごいのか評価する力がないからこそ同調したりとか感動したりとか、そんな言い方になる。
 先日の芸術を学ぶことで豊かな心をと言う主張から今回の記事を書くに至った。読んでわかるとおり芸術鑑賞とは文化の理解・継承にこそ価値があり、情操とか宗教的な力はない。むしろ芸術を通して社会を学ぶことにこそ価値がある。
 読書感想文を書かせて「共感できました、すごかったです。」、ダンスを見せては「かっこよかったです」「ポーズが斬新でした」、絵を見ては「絵がキレイでした」「癒されました」。そんなものは鑑賞ではない。オークションで奇抜な芸術作品に高値がついたと言うニュースが年に数回ネットを賑わせる。しかし、作品に共感できる、同調できる、斬新さを感じるなどは市場価値を高める行為でしかなく、本当の芸術としてのモノの価値を問い直す事は難しい。確実に評価できる能力があると言うだけでも実はすごいことなのである。
 これらの視点からその芸術の価値を再発見することで教科書に書かれた作品がいかにすごいモノなのか、美術館に展示されているモノがいかにただの作品じゃないのかがわかるはずだ。音楽や映画がくだらないかどうかも、自分の感性による主観でなく、一度この視点で考え直してみる必要があるだろう。


多分美大なんかでは一番最初に教えられる事だと思うし、多くの人がぼんやり感じていたことを文章に直してみただけなので特に真新しい部分は無いと思う。だがアーティストが必死で勉強して使命感から主義主張のある芸術を作っても正当に評価されないというのはやはり悲しい部分ではある。

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ピカソって何が凄いの?みんな分かったフリしてるだけだろ?