若者が争わなくなった。

「あいつは敵だから」と言って、ケンカもせず理解しようともせずただお互いに距離を置く。

そしてその関係はお互いが見える間はずっとそのままである。

「敵」は「相手」の質を判断した価値判断的な言葉である。

「相手」が自分に対して(トータルして)ポジティブであれば味方、ネガティブであれば敵である。

 「敵」=「相手」+「ポジティブ」
「味方」=「相手」+「ネガティブ」

学校に入るにも就職活動についても受験文化が未だに健在の日本では「社会は競争である。」「世の中は競争である」「生きるとは勝ち抜くことである」などという隠されたメッセージを知らないうちに頭の中にすり込んでしまう。少なくとも少年誌を読んで育ってきた世代には胸躍る言葉では無かったろうか。

しかし実際はどうだろうか。同じ「競争」という言葉にしても「共創」や「協走」にシフトチェンジしていかなければ生き残ってはいけない。産業構造は相変わらずだが法律は徐々にシフトしつつある。

「相手」を「敵」や「味方」にするのはわかりやすいが、その行為で何が発生するかを考えること。

相手を敵と見なして争うべきときは自分の能力を伸ばしたいときに限るべきであって、競争原理はモチベーションにつながる。

なにかサービスやモノを作るときは、情報の共有、お互いに学び合うことこそ重要である。

そしてモノを作ることは目的ではなく手段である。

生産によって、文化的に豊かになるだけでなく、多くの問題を解決する手段となる。

争うだけでなく、馴れ合うだけでなく、場合によって切り分けるという判断力こそ必要である。