2009年02月

敵という言葉を使わない。

若者が争わなくなった。

「あいつは敵だから」と言って、ケンカもせず理解しようともせずただお互いに距離を置く。

そしてその関係はお互いが見える間はずっとそのままである。

「敵」は「相手」の質を判断した価値判断的な言葉である。

「相手」が自分に対して(トータルして)ポジティブであれば味方、ネガティブであれば敵である。

 「敵」=「相手」+「ポジティブ」
「味方」=「相手」+「ネガティブ」

学校に入るにも就職活動についても受験文化が未だに健在の日本では「社会は競争である。」「世の中は競争である」「生きるとは勝ち抜くことである」などという隠されたメッセージを知らないうちに頭の中にすり込んでしまう。少なくとも少年誌を読んで育ってきた世代には胸躍る言葉では無かったろうか。

しかし実際はどうだろうか。同じ「競争」という言葉にしても「共創」や「協走」にシフトチェンジしていかなければ生き残ってはいけない。産業構造は相変わらずだが法律は徐々にシフトしつつある。

「相手」を「敵」や「味方」にするのはわかりやすいが、その行為で何が発生するかを考えること。

相手を敵と見なして争うべきときは自分の能力を伸ばしたいときに限るべきであって、競争原理はモチベーションにつながる。

なにかサービスやモノを作るときは、情報の共有、お互いに学び合うことこそ重要である。

そしてモノを作ることは目的ではなく手段である。

生産によって、文化的に豊かになるだけでなく、多くの問題を解決する手段となる。

争うだけでなく、馴れ合うだけでなく、場合によって切り分けるという判断力こそ必要である。

学校で教えてくれない、芸術を評価するための6つの視点

 僕はどちらかというと産業技術を評価する立場なので技術の視点からしか芸術を語れないのだが、ダンスの経験や芸術教育科の教授に教えてもらったこともあるので少し整理するために書き出してみたい。


 まず「芸術」は何を含むか。もとのとしては主として絵画、音楽、文学、演劇、舞踏、映画を指している。しかし一定の精度を超えた技術も芸術と呼ばれるにはふさわしいし、現に呼ばれる場面もしばしば見受けるだろう。いったい何が芸術なのか、その評価方法を考えてみたいし、共有しておいて損はないはずだ。

 まず踏まえておきたいことは芸術の価値を数値で表すと市場価値とモノ自体の価値がある。その芸術というモノの価値について考え直してみたい。 続きを読む

[ニュース]文部科学省の「心を育む」教育がひどい

タイトルは釣りだけれども、文部科学省のサイトを見たら発表されていた
新しい日本の教育 今こそ実行のとき!「心を育む」ための5つの提案

新しい日本の教育今こそ実行のとき! (PDF:111KB)

「心を育む」ための5つの提案 (PDF:61KB)

 「今こそ」と言う割にどこら辺が新しい提案なのか、従来の「道徳教育を充実します」宣言や「道徳を充実させろよ」提案との違いがわからない。道徳を充実だけで子ども達が変わるのであればどこの学校でも総合的な学習の時間を利用してとっくに行っているはずだ。今の若い子達は徐々に「言い聞かせ」が聞かなくなっているのだから、教材が充実したといえるのはふたひねりくらいの労力が必要だ。

 道徳性の充実について、重要なのはイベントとその振り返りではないだろうか。

 普段と違う場面でどのような行動を取るか、それを普段の自分とどう統合するか、そういう機会こそが重要であり、ケータイの使い方云々よりも学校が満足したイベントを行えているかとその振り返りにどのような効果があるか調査すべきだ。若者達は変わりたくても変われないと思いこんでいるのではないかと思う。僕自身昔はそうだった。それに対して、イベントを機に自分が変わったと言う理由は自分自身を納得させやすい。

 それからただでさえ時間に追われている教師達にこれ以上調査やテストを増やすべきではない。その予算を部活動の監督をする先生の給与に反映させたりもっと使うべき部分があるだろう。

 あと、まず校長用や要職用の新人研修マニュアルを作って、「最初は『好きにやってほしい、責任は俺が持つ』と言う」などといった教員の自己実現の確保と居場所作りを徹底するよう指示したりしないだろうか。もちろん方法論は徹底的に学ばせるという前提つきだけど。

参考:「心を育むための5つの提案」を公表―塩谷文科相

憂鬱に効くかもしれない5つのこと

ゆううつである。鬱(病)ではない。

時間に追われている訳ではないのにTO DOが進まない。自分の処理能力のなさに憂鬱になることが多い。

僕の場合は特にお金がないときと締め切り前と疲労が貯まっている場合に憂鬱になる。

そんなとき対処として意識している5つのことを書きたいと思う。 続きを読む

特許と著作権は本質に近づくか

特許法:抜本改正へ 技術「保護」から「促進」に
 特許庁は1959年の特許法制定以来、初めての抜本改正に乗り出した。現在の特許法は企業の研究開発成果などの保護を主な目的としているが、「革新的な技術の開発を促すための法律」との位置づけを明確にし、さまざまな改正を検討する。12年の改正法施行を目指す。



著作権者の了承不要、「二次利用」拡大を検討 文化庁
 文化庁は社会的に必要性が高ければ著作権者の了解を取らず音楽や文章などの二次利用ができるよう、「フェアユース(公正利用)」の規定を著作権法に盛り込む検討に乗り出す。規定ができると、インターネットの検索サービスなどが展開しやすくなる。早ければ2月末から文化審議会の法制問題小委員会で議論を始め、1年間かけて結論を出す予定。

 どこまでを「公正利用」とするか、権利者と利用者側の解釈に隔たりがあり、文化庁は難しいかじ取りを強いられそうだ。(07:00)



特許も著作権も「知的財産」という概念にまとめられて初めて抜本的な改正が行われる。プログラムも特許として認められるなど細かい変更はあったものの、その多くが権利の保護(おもに利益の保護)を目的に、その教育も多くが教条的なもの、学習者がネガティブな感情を持つモノであると報告されてきた。

真似すること自体なにも悪いことはないのに、この法律のおかげで不当な制限を強いられてきた事例も散見されるだろう。

基本的に情報は共有されるべきモノだし、特例として特許や著作権がある。文字通り「特別に」情報の帰属を所有することを「許される」権利である。(多分文章的に厳密ではないがイメージである)。

コカコーラやケンタッキーは特許をわざと取らず調理法を秘密にしている。情報は公開し新たな要素の追加や改良を加えることで社会や産業は発展する。情報共有のために情報を公開したインセンティブとして特許法は存在するわけで権利の保護はその表面でしかないし、競争でなく共に発展する事を目指してのルールであったはずだ。


 恩師の話で知ったのだが、この知的財産権の起源は農耕社会にあるという。
農耕社会における所有権概念の発生の基礎は、所有権者個人を保護することによって、まず社会構成員のそれぞれに農耕、農業投資へのインセンティブを与え、究極的にそれを通じて社会全体の農業生産の極大化をはかることにあった。また、農業社会が工業社会へと発展すると、特許権等の知的財産権が観念され、特許権者等の権利者個人を保護することによって、個別の社会構成員に発明等、新規テクノロジーへの投資のインセンティブを与え、究極的にそれを通じて社会全体の工業生産の極大化をはかることになった。このように考察をめぐらしていくと、近時脚光をあびている知的財産権概念も、基本的には、土地所有権概念とその構造はパラレルであって、同じ社会的な基礎を有していることがわかる。



 問題は「自分の手を加えず人の作ったモノでお金を稼ぐ」という行為だ。このアナロジーでいえば他人の畑でとれた野菜を売るようなモノである。
 農業のノウハウは共有すべきであるが、できあがった野菜を取るべきではない。
 海賊版やデッドコピーが無くなれば皆特許を取らず情報を公開するとは考えにくい。考えにくいが社会の発展は加速するだろう。
 宮台真司氏が言うように「これ以上資本主義が発展するにはみんながいい人になるしかない」という言葉が思い出される。

※どうやら平田先生のブログで誤解されていたようなので編集・追記しました。基本的に言いたいことは同じです。またご指摘いただければと思います。
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